9月24日

イベント「いまきみが入れた真水のコップに話す(大阪で)」

新宿のロフトプラスワンの10周年企画。
ロフトプラスワンの人気企画を大阪でやろうというもの。
6月5日に新宿で話した内容とはあまり重複しないように進められた。
新宿に比べて全体に対する常連の比率が高く、
枡野さんの妹さんの話などざっくばらんな話でスタート。
肩肘張らないと言い換えることもできるが、
割と愚痴っぽいことも話していた。
かんたん短歌blogについての話が多くて、
結社的なことから離れたことをしようとしてやったら
結社よりも大変なことになってるという話は
そうだろうなぁと思った。
結社だったら、選をされた作品は、
その人の作歌歴によって載る場所が変わってくる。
かんたん短歌blogではそういうことをしづらくて
新しく始める人と常連とをフラットに扱っていくのが
話を聞いていて大変そうだった。
結社に入ってない人の中には結社にいいイメージを
持っていない人も少なくないけど、
結社のシステムってやはり理にかなっているところも多い。
結社に属さずに自分の短歌を見てもらえる場として
広く知られてきたかんたん短歌blogには
枡野さん以外の人に見てもらったほうが良いのでは
という作品も投稿され、
そういった短歌を正岡さんは
「80年代に歌壇が、問題に突き当たりながら、
歌壇がちゃんとしてこなかったから生まれた短歌」と称していた。
後は前回同様、俳句や現代詩など
短歌以外のジャンルの話を交えながら短歌の話をしていた。
短歌を詠む人で現代詩を読む人が少ないという指摘を
正岡さんはしていて、そういう指摘をする理由は私にもわかる。
言葉と言うものに最も向き合ってきたジャンルは現代詩で、
短歌の世界でも語尾とかで
新しい自分なりの言葉を使うことは重要で、
(それは造語ばかりでなく、短歌であまり詠まれて来なかった
語尾を発見して、その語尾を使って短歌を作るとか)
それをしないと、誰かみたいな短歌に陥りがちだ。
また、正岡さんはしきりに散文と韻律の対立という話をしていた。
短歌は韻律に言葉を乗せる表現であり、
過去の作品たちも韻律に乗せられ詠まれてきている。
韻律というフォーマットを無視すれば、
読者は作品を読んだり、音読されたのを聞いたときに
心に残りづらいのは確かだ。
このイベントで枡野さんも
「自分には詠めないような作品を見たい」
といったことを言っていた。
笹さんのような短歌の言い回しを逆手にとった短歌を
枡野さんは一定の評価をしているし、
枡野さんが短歌を知らない人が聞いたら
短歌とは思わないような短歌というような作品を
かんたん短歌blogで詠んでいくのは面白くない。
このトークイベントを聞いたかんたん短歌blogの投稿者たちが
今後どんな短歌を詠んでいくようになるのか楽しみである。

9月11日

映画「エンジェル・スノー」

3年に渡る不妊治療、4度目の人工授精の末。
やっと妊娠した夫婦。
待望の胎児は先天性の病気に冒されていた。
世の中うまくは行かなくてそんな中
感情的になったり落ち込んだり。
最後まで夫婦は現状から逃げなかった。
そういう意味では明るいけど、
急に不治の病と言われていた病気が
直るようになりましたみたいなことは起きないので
ハッピーエンドと言っていいかはわからないけど。
目の前で起こっていることにうろたえず
妻を支えるソギュン(イ・ソンジェ)がかっこいい。
私に足りないのはああいう包容力だな。
包容力の裏返しで韓国男性は強引だったりするんだけど。

9月4日

イベント「アジアのキュビズム展」

ピカソ、ジョルジュ・ブラックが中心になり
20世紀初めに始まったキュビズムが
萬鉄五郎、東郷青児、ジョージ・キートほか
アジアの画家たちに受容され、
ピカソやブラックとはまた違う名画がたくさん生まれている。
キュビズムとは遠近法の伝統的な手法である
一点透視法を放棄しと言われても
私もよくわかっていないのだが、
東郷青児の「コントラバスを弾く」で
普通だったらコントラバスで隠れている
コントラバス奏者の足がコントラバスと一緒に
描かれているのが、キュビズムなのはなんとなくわかる。
アジアではキュビズムが未来主義・構成主義と
ほぼ同時期に受容されていて
金煥基の作品(名前失念)で
赤と黒の配色が鮮やかなものがあって
この配色は構成主義っぽいと思った。
戦争や物乞いを描いた作品が第二次大戦後も描かれ
戦後のアジアは戦争の歴史であることを実感。。
ピカソがゲルニカで描いた戦争を反対する強い気持ちを
戦後、欧米が豊かになっていっている間も
キャンパスに向けていたのはアジアの画家。
キュビズムはアフリカやオセアニアなど
エスニックの美術の影響を受けていて
キュビズムって、文化人類学もそうだと思うが、
西洋の理性とか西洋が培ってきた学術的なものさしで
アジアやアフリカを計るみたいなのがあって
キュビズムが描いたアジアらしさは
本当にアジアらしいかと
アジアの作家は思ったことだと思う。
キュビズムという手法はとりつつ
アジアの画家がアジアを上から見るような視点で描く
ということをしないように試行錯誤している様子は
作品たちを見ながら伝わってきた。
西洋文化とか都市の匿名性とか
社会が近代化していく途中で憧れていくものと
キュビズムは相性が良く、
高度成長社会の只中にいる画家のみが描くことができる
エナジーがキャンパスの中で発散されていて
社会に対してそういう希望が持ちづらい
現代の日本で生活している私には
ちょっと眩しくもあった。



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