11月5日

イベント「穂村弘の 短歌入門 コトバのちから」

朝日カルチャーセンターでの特別講座。
受付後、講座日までに受講生から短歌を2首まで募り、
各人の作品1首を取り上げ、具体的なコメントをしてくれた。
その前に何故詩を書くかの話(短歌も詩の一つである)。
私たちは生活していくために働いたりものを食べたりしている。
お金や食べ物は私たちが死なずにいるために必要なことである。
働いてご飯を食べて寝るところがあれば人は死なないかもしれないが
それは「生き延びる」ためにしていることであり、
「生きている」という実感を得るためには
「生き延びる」ためには必要ないことが必要なのではないだろうか。
「俺はこうして働くために生きているわけじゃない」と
働いているときにそう思うことはないだろうか。
私たちは何のために生きているのかを合理的に説明できないように
合理的には説明できないけど、
「生きている」という実感を得るために必要なものが私たちにはあって、
その「生きる」ための言語が詩である。
みんなが「生き延びる」ために必要なのは
5W2Hと言われるような社会化された言葉で、
これは共通のルールとして示され教えられているので
合理的に説明できる言葉である。
詩の言葉はこうした合理的なものとリンクしていないが、
説明はできないが生々しいものである。
詩とは生活の余剰部分でなく、
一人一人が生きていくことに密接に関わっている。
「生きている」と、「生き延びる」上では必要ないことに反応することがあり、
良い詩は普段私たちが気付かないことに気付かせてくれる。
こうした意識の立ち上げは人を豊かにし、
人間の限界、人間と造物主(神)とのレベル差を意識させる。
真面目な医療行為に性的なものを思ってしまったり、
あるじのいない蜘蛛の巣を取り払えなかったり、
そういった思いや出来事を「生き延びる」ための言葉では言いようがなく
それらを言葉にすると詩になる。
詩というものは合目的なものへの批評性を持っている。
生き延びるためには必要ない詩を抹殺しようとするものが世界にはあり、
批評性がないとそうしたものにやられてしまう。

こうした詩をリアルなものとして人に伝えるには
詩としてのフォルムがあり、受講生の短歌をもとに技巧の説明。
短歌とはオリジナリティと推敲の余地がない完成度の掛け算である。
詩としてのフォルムはめちゃくちゃでも
その人にしか詠めないものを読者がリアルに感じることが出来たら
それは良い詩である。
上手く説明できてない感情がそのまま詩の中で断絶として起こっていると
読者はその断絶を見ることでリアルさがメタ的にわかる。
他に作歌のポイントは、初句から読み始めて最後まで何かわからないこと。
音の描写などから始まって結句で何かわかるなど。
同じ名詞を二回出すときは片方をひらがなにして質感を変える。
詩といえどもパターンはあり、恋の始まりなどを共感させる語というのはある。
「すら」「さえ」といった作者の強烈な価値判断を誘う語は避ける。
これらを使うことは貯まっていない貯金箱を割ること。
詩のテンションを高めれば、読者は自ずと「すら」「さえ」と思う。
同じことが言える語は「ふいに」。
人間同士の孤独感など、詩をもってしか語れない普遍的なものがある。
ささやかで自分のせいでむなしいものは詩になりうる。
(このとき穂村さんが挙げていたのは深爪)
ささやかなものを詠む際に対極的な大きなもの、
空や宇宙を持ってくると詩になりうる。
触感のないものに触感を感じたり、
五感を越境した表現は読者にリアリティを持たせる。
今回は受講者が多く、いろんな作品が出されていて
その都度いろんなコメントを穂村さんがしてくれたので
今後作歌をしていく上でとても勉強になったイベントだった。


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