10月23日

新書「下流社会」(三浦展)

「日本の、これから」という討論番組が
昨日NHKでやっていた。
若者が直面している厳しい状況について討論されていた。
正社員の求人がない。
特に高卒は就職を希望してもほとんど採用されない。
地方は有効求人倍率が80%を切っている。
多くの若者が自分の居場所に対して
ある種の諦めを持っているように感じた。
昔は大卒であれば正社員での求人がいくつもあったが
いまでは大卒の若者の中で
就職できたものとそうでないものの間で
「勝ち組」「負け組」と言いたくなるような
二層化が始まっているように思える。
本著ではそんな負け組、もしくは負け組予備軍が
上昇志向を持てずに刹那的にいる様子が
顕わにされていっている。
第2章の第4項で出てくるギャル系の子の
インタビューを読んでると、
現在の生活の満足度は低いとしながら
それを変えようとしない様子に
「それでいいのか」と思わざるをえない。
無事、正社員として定職に就けた若者も
パラサイトしていた学生時代に比べて
働いている現在のほうが豊かさを感じられずにいる現状は
これから若者たちが働き続けていって
日本を支えていくのに良いとは言えない状況だ。
若者こそ希望にあふれていなければならないのに
第3章で比較されている、
若者の階層意識に関する調査では
年々、自分の水準を「下」と回答する若者が増えている。
実際に生活水準が低いかと同じくらい、
自分の生活に希望を持てるかというのは重要で、
多くの若者が上昇志向を持てないのがとても問題に思える。
では、上昇志向を持てない若者に、
やっぱり仕事には就かなきゃだめで
仕事していれば嫌なシチュエーションはいくつもあって
だけどそういうことをこなしていくことも仕事だし
いろんなタイプの人とも付き合っていかなきゃいけないし
そのためには自分らしさとか言ってばかりもいられない
ということを気付かせるにはどうしたらいいのだろう。
(こういうことは学校での集団生活によって
身に付けていくのもあると思うが、
意欲のない集団ではそれも機能しないのだろう)
筆者は解決策として教育の格差の是正を挙げている。
学校の水準によって、若者が持てる上昇志向に差が出ている
というのは確かな指摘で、
親の階層が低い子は入試で優遇するといった策を挙げている。
このままでは希望の高校に行けないとか、
頑張らなければいけないときに
頑張らなかった本人の問題が一番大きいと
私などは思うのだが、
そうは言っても、こういう若者が増えていることは
そうでない若者にとっても、
これからの日本を考えていくうえで
他人事ではなく考えさせられる問題である。

10月17日

イベント「キース・ジャレット ソロ 2005」

キースの即興演奏を1曲目2曲目と数えていくのは
どうも馴染まない気がするが、
便宜上、インターバルや拍手ごとに
1曲目2曲目と数えていくことにする。
前半に5曲、20分の休憩を挟んで後半に6曲。
アンコールが4回あって、計15曲。
キースの演奏はこうしてレビューが書きづらい。
曲ごとに大きく印象を変えてくるし、
「○○っぽい」とも説明しづらいのだ。
次から次へと鍵盤から音が飛び出す
数珠つなぎのような演奏。
キースは6曲目にそんな演奏を見せる。
この演奏を「上原ひろみっぽい」と例えれば
いくつかの人にはわかりやすく伝わるかもしれない。
しかし、その演奏の中で上原ひろみっぽくない部分こそ
キースらしさであり、
この説明はキースを説明していることにはならない。
私はキースのソロコンサートに行ったのは99年以来2度目だが、
今回のほうがバラエティに富んでいた気がする。
前半にはニューウェーブロックのような演奏もあったり、
フリージャズのような演奏もあった。
3曲目までやさしい感じの演奏がされなかったから
肩透かしを食らった気がした人もいたかもしれない。
他にも実験的だなぁと思ったのは
片手(主に右手)で一定の二音を奏でながら
もう片方の手でフレーズをつけていく演奏。
あたりまえだが、二音より高い音色でフレーズをつけるのと
低い音色でフレーズをつけるのでは
一定である二音の音の印象も変わってくる。
当たり前なのだが普段まったく意識することがないことで
こういう演奏を聴いていると、音感がとても刺激される。
あと感動したのはアンコール。
3度目のアンコールが終わった後も
スタンディングオベーションと拍手は止まず、
会場が明るくなり「ただいまを」とアナウンスが流れたのだが、
会場は再び暗くなりキース登場。
ただいまをもちまして本日の全公演は終了いたしました。
とはならなかった。
4度目のアンコールは本当に予定になかったんだろうなと思う。
キースもピアノの鍵盤の蓋を開けたり閉めたりして音を出したり
気さくな演奏を見せてくれた。
それにしても4度目のアンコールが始まったとき
「くらもちふさこのマンガみたいだ」と思ったなぁ。

10月16日

映画「8月のクリスマス」

私はこの場で多くの韓国映画を取り上げているが、
私が韓国映画を好んで見るようになったきっかけは
ホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」。
今日取り上げている映画はこの映画を
長崎俊一監督がリメイクしたもの。
見たことない人のために説明すると、
写真店を経営する主人公が、
若い女性客を知り合い仲良くなっていく。
主人公は死期が近く、
このところずっと恋を遠ざけていたのだが、
女の明るい人柄に惹かれていくという話。
死期が近い主人公は女にそのことを言えず、
話の後半、すれ違いが多くなるのだが、
ラストで(この先は言わないでおきます。
主人公の病気が奇跡的に治ったり
嘘臭いラストにはなってないのでご安心を)
オリジナルと設定が少し変わってる。
シム・ウナ演じるタリムは婦警だったが
関めぐみ演じる由紀子は小学校教師。
オープニングがオリジナルと異なるので
嫌な予感がしつつ見たのだが、
ストーリーはあまり変えてない。
台詞の多くはそのままで、
日本人はこういうこと言わないだろう
というような部分はきちんと変更されていて
それが逆に見ていて台詞に入り込める。
こういうリメイクってオリジナルよりは劣るだろうと
期待をせずに見たのだが、
本作で良かった部分は台詞が日本語であること。
日本でリメイクされたので当たり前のことだが。
オリジナルを字幕で見ると、
文字数の都合上割愛されてしまうような台詞の流れが
日本語でやり取りされるとちゃんと掴める。
(私は字幕派なのだが、映画ファンで
吹き替えが好きな人がいるのもわかる気がした)
やっぱり映画はその国の言葉で見るのが最も理想。
オリジナルを見たことがある人は
この作品を見る前にもう一度オリジナルを
見返すといいと思う。
そうすると逆によく出来たリメイクだと思うだろう。
私が見てオリジナルと差が出たなあと思った箇所は、
由紀子の地方勤務が決まった後のシーン。
鏡の前で声を出して泣くのだが、
ここはシム・ウナのように鏡に向かったまま
涙を目に溜めるという演技をして欲しかった。

10月2日

イベント「エドワード・スタイケン:ポートレイト」展

MoMAの写真部長も勤め、
写真史上に大きな影響を与えた写真家の展覧会。
撮影年順に並んでいて、順に見ていくと
ちょっとしたアメリカ史になっていた。
1904年頃までの作品は顔の表情が厳しかったり
作品からアメリカの豊かさをあまり感じないのだが、
1905年頃から少し変わってくる。
これはきっと、スタイケンがキャリアを重ねていくに連れ
豊かな生活をしている著名人を撮るように
なっていったからではないだろうか。
そんな作品から伝わる豊かさも23年頃に
少し陰をひそめ24年にはまた元に戻る。
調べてみたが23年にそういったトピックは
アメリカ史上見つけ取ることができなかった。
何と言うか、同じ頃撮られた写真には
何か共通の雰囲気を彼の作品からは感じ取ることが出来る。
言ってみれば彼は時代を映しているのではないだろうか。
そんなこと言ったら世界恐慌真っ只中の1930年に撮られた
グレタ・ガルボは表情が厳しいはずだが
そんなことなくすばらしい存在感を示しているのはさすが。
グレタ・ガルボを見て思うのは、
やっぱりきれいな女性をきれいに撮っている作品は見ていて楽しい。
ポートレイトは誰を撮るかの人選もとても重要だと思う。



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