11月のセレクション


11月28日

マンガ「ポケットの中の君」(冬野さほ)

まず始めに、この人、「とうの」っていうのね。
ずっと「ふゆの」だと思ってた(汗)。
この人のマンガは、言葉では表しにくい。
一コマが映画のワンシーンのよう。
一コマ一コマで場面が展開するので
1ページの中のとても多い。
画は初期の魚喃キリコに似てる。
この人のマンガが好きな人って
テンポのいい展開や、
セリフのないコマでシーンを構成する
饒舌でないとこ、叙情的なとこがいいんだろうなぁ。
ディズニーの「ファンタジア」を
この人がマンガ化したら面白いかも。

11月27日

マンガ「星の時計のLiddell」(内田善美)

不思議な体験をした人の話というのが
世界中で数多く残されている。
彼らは何を経験したのだろうか。
彼らは時代の変化を感じ取ったのだ。
歴史は繰り返す。
ある状況が過去に対する知識と重なり合って形となる。
未来に起こる出来事の予兆が
過去がプレイバックする形でやってくる。
(この過去が近ければ、この感覚はデジャヴである)
これは睡眠中の無呼吸時に不思議な夢を見る男、ヒューの物語。
19世紀アメリカを感じさせる懐かしい感覚。
こういった感覚を持つ人たちは特別と言うよりも、
ある感覚に対して敏感なんだろう。
環境の変化が激しい現在では、
全ての人が知覚するまでに環境が変化してしまうと、
適応するのが大変である。
ある感覚に敏感な人というのは、社会に必要だろう。
故郷がなく、世界を彷徨い続けたウラディミールは
自分が心地よいと思える居場所に敏感だ。
人間の内面と外界は相関関係にある。
集まる人々によって世界は変わるし、
環境によって性格は形成される。
外界に敏感なウラディミールが
ヒューの内面に関心を抱くのは自然なことだろう。
何故私たちは、SFなど別の世界を指向するのか
そんなことをこのマンガを読みながら考えてしまうくらい、
このマンガは奥深く、密度が濃い。

11月24日

マンガ「スロー・ダウンー怯える仔羊の為のAー」(耕野裕子)

私が少女マンガに求めているのは、
少年マンガにはない、細かい心理描写。
最初に触れたのがくらもちふさこで本当によかったと思う。
正確に言うと、最初に触れたのは
「シニカル・ヒステリー・アワー」や
「お父さんは心配性」なのだが
私の中では、これらは少女マンガではなく、
ギャグマンガにカテゴライズされている。
このマンガも共感できる心理描写をしてる。
主人公茅生の前にアサヒと名乗る女の子が現れる。
茅生は家がなく、友達の家に居候をしている。
その居候先が女性であることをアサヒは知る。
「わざわざ言うことでもないだろ」という言葉で
済まそうとしている茅生と対称的に強いショックを覚えるアサヒ。
この辺の心理描写が上手い。
アサヒの感情を追体験することが出来る。
ちなみにこの感情は、アサヒが居候先の女性、
夏目と出会うことでピークに達する。
この茅生は無気力な男の子という設定で、
(ここまで無気力な男はいないだろと、少し共感できないのだが)
夏目の下に居候(同棲)してるのは、
夏目が自分に対して好意的だからといった感じで、
自分から誰かに積極的に行動しない。
ただ、茅生がこのようなキャラクターだから、
アサヒの向こう見ずなキャラクターが生きている。
茅生が、世話になってるマンガ家、
エイジに言われたこの言葉が茅生を後押ししたと思う。
「欧米じゃ女幸せにすることもステイタスのひとつだからな」
こういう言葉をかけられたら、
受け身のままの恋愛を続けてはいけないよなぁ。

11月22日

マンガ「空の色ににている」(内田善美)

図書館で借りる本にいつも同じ人の名前が。
この冒頭の設定に「耳をすませば」が思い浮かんだ。
「耳をすませば」みたいな感じかな?と思ったら
主人公が内省的なシーンが出てきて
とても観念的な印象を受けた。
きれいな女性との出会いや、
少し頑張っただけで陸上の試合で1位を取るシーンなど、
リアリティという意味では(少なくとも私の)身近で
起きそうな話ではない。
しかし、話にのめり込むだけの説得力がある。
話の世界がきちんと構築されている。
主人公、蒼生人が抱えているジレンマ、
説明を付けることが出来ない割り切れない感覚に共感できる。
このマンガの登場人物たちのような未来への不安は
高校生の頃、誰しもが経験するだろう。
浅葱と冬城という対照的な二人が登場する。
いるだけでお互いを補完する存在。
他人と対峙することによって
なんとか自分の居場所を見つけることができてる。
浅葱に思いを寄せている蒼生人は恋のライバルであるのに
マイペースを保つ孤高な冬城に畏怖の念を抱く蒼生人。
また、蒼生人の浅葱への思いは日増しに高まっていく。
説明が付けられない感覚にさいまれている若者に
ぜひ読んでもらいたい作品なのだが、絶版なのが残念。

11月18日

マンガ「瞬きもせず」(紡木たく)

「これだけたくさんの人の中から 本当に好きな人を見つけて
その人も自分のことを 本当に好きになってくれて
これって一つのキセキだよね」
「あー そっかー」
「すごいよ かよちゃんはその人に高1で会えたんだよ」
6巻のこの部分を読んで感動してしまった。
恋愛マンガって主人公が誰かを好きになると、
相手も自分に振り向いてくれるといった前提がある。
相手が振り向いて2人が付き合い出さないと
恋愛マンガはなかなか進展しない。
振り向いてもらうまでの苦しさを描いていても
「いつかくっつくのだろう」と思いながら
恋愛マンガを読んでしまう。
で実際、多くのマンガはくっつく。
このマンガも2人はくっつく。
こういうのに都合がいいなぁといつも感じてしまう。
前述の引用を読んで私は何を思ったかというと、
人を好きになること、人に好きになってもらうことのすばらしさだ。
作者はこういう出会いが都合のいいものであることは
十分承知しているだろう。
だが、こういう出会いに「都合がいいなぁ」と感じるのではなく
「うらやましいなぁ」と感じてほしいのではないだろうか。
さて作品の全体としての印象だが、
言ってくれないとわからない、異性の自分への思いとか、
異性に対して少しでも自分を可愛く見せようと言った、
10代らしいドキドキ感がよく伝わっててよかった。
告白されたのに相手のことを気づかったりして
疎遠になって話しづらくなったり、
2人がギクシャクした場面が多くて、
ラブラブな展開になるマンガを読むことが多い私には
もどかしく思わなかったわけではないが、
でもちょっと新鮮だった。
決めのコマでは登場人物が横を向いていることが多かったり、
小道具のアップを上手く使ってたり、
このマンガのラストは魚喃キリコ的。
(もちろん逆。魚喃キリコが紡木たくの影響を受けている)

11月16日

『子供の目』(トム・ヤンス)

マイケル・ジャクソンの「beat it」を「eat it」と替え歌を歌った
アル・ヤンコビックの高音って澄んでてきれい。
(アル・ヤンコビックは、アル・ヤンコビッチと言った方が
まだ通りがいいかな。このトム・ヤンスも最初の頃は
トム・ジャンスと呼ばれていた)
クレイジーキャッツの「ハイそれまでヨ」の出だしが
フランク永井を意識したかっこいい低音だったり、
コミックソングってかっこいい部分を見せるからこそ、
そのメリハリでコミカルな部分が活きる。
なぜ、アルヤンコビックを持ち出したかというと、
トム・ヤンスの声が澄んでいて
アル・ヤンコビックを思い出したから。
4曲目の「きみの中にいるとき」が特に高音がきれい。
この頃のフォーク、カントリーロックのテイストのいいとこ取り。
そんな感じのアルバム。
2曲目の「死ぬまえに」はジェームス・テイラーのような感じだし、
3曲目の「友だちはどこへ行った」のベース、オルガンの
タテのりな感じはリトルフィート。
9曲目の「間違った方向」のノリのよさもそう。
4曲目の「きみの中にいるとき」はゆったりとした感じ。
スロウなリトル・フィートとジェームス・テイラーを足して2で割った感じ。
イーグルスやジャクソン・ブラウンの初期とも似た感じがある。
このアルバムのエグゼクティヴ・プロデューサーが
リトル・フィートのローウェル・ジョージ。
リトル・フィートが好きな人がリトル・フィートの延長で聴くのもアリだけど
声の澄んだ感じとか、リトル・フィートとは違う部分を楽しむには、
「サウンド的にはかなりリトル・フィート色が強い」といった
ライナーの表記からあまり先入観を持たない方がいいと思う。

11月11日

映画「ソードフィッシュ」

「マトリックスを超える驚異のVSX」。
なるほど。でも、あの映像が派手すぎて
どうもなじめなかった。
街中でマシンガン乱射したり。
自動小銃っていうより、戦場で用いるようなマシンガン。
あまりに派手な映像があまりに突然やってきて、
そこに実感を感じえなかった。
でも、あのシーンを最初に持ってきたり(ネタバレ考慮)、
話の構成は少し凝ってた。
どんでん返しというから謎解きを期待してたんだけど、
あまり複雑なのはなく、
派手な場面を矢継ぎ早に出して、
謎解きさせないつくり。
派手な映画が好きな人は楽しめると思う。
いちおうトリックが入ってるから見てても退屈はしないし。

11月9日

小説ほか「とっておき作品集」(江國香織)

語り下しの「物語の復権」を読むと江國香織が何を考えながら
小説を書こうとしているのかが分かる。
Aがある、Bになる、というのは情報で、
物語というのはその間に存在するものというような話は面白い。
で、情報化社会にいる私たちは、
出来事を情報で捉えることばかり多くなって、
物語を軽視していると。
処女小説の「409ラドクリフ」は、初期の村上春樹のような
ある世界を切り取るといった感じが強いけど、
「とろとろ」は、主人公の思いがいろいろ錯綜している様子を
読者が追いかける感じ。
「409ラドクリフ」のようなあっさりとした感じより、
こうしたちょっとドロドロした感じのほうが、
江國香織が書く必要性、江國香織だから書けること
というのが伝わってくる。
これは谷崎のような濃厚な小説が好きな私の意見だが。
最近は、ある世界を切り取るといった小説が多いけど、
「ラブ・ミー・テンダー」は、きちんとオチがあって、
短編小説を書こうと思ってる人、
三題噺対策をしたい人には参考になるはず。
また、妹、江國晴子の姉を語ったエッセイがとても面白かった。
読みやすいし、様子が伝わってくる。
こういう文才ってセンスだよなぁ。

11月4日

映画「太陽は、僕の瞳」

愛のあるべき形というか、愛を別の言葉で表すと、
「自己犠牲」だと思う。
キリストの受難もそうだし、この主人公の父親もそうだ。
我が子が川に落ち、川の流れの速さを恐れず、
自分も川に飛び込む姿は自己犠牲であり、愛だ。
盲目の子供を抱えたことを悲観し、
早く自立させ誰かに押しつけようとしてた父親が
息子の死の危機に直面し、息子への愛を示した。
父親の背中を押したのは母親(主人公の祖母)の死だろう。
生命の尊さは死からしか学べないのかもしれない。


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