12月28日

映画「ジョゼと虎と魚たち」

ひと言で言えば「だって、男の子だもん」って感じ。
妻夫木くん演じる恒夫のキャラに引き込まれた。
足が不自由な女の子ジョゼを放っておけなくて
彼女に惹かれてしまうのは
それが池脇千鶴だからであって、
ブスだったら話は続かない。
彼氏と別れたばかりの女の子に
鼻の下を伸ばして近づくのも、
就職先が決まらなくて、
ジョゼのために障害者のための
いろいろな手配をした恒夫に
建築会社の男が「感心やな」と
言ったのを思い出し、
その男を訪ねに会社訪問をするとか、
男の子だもん、下心はあるさ。
障害者の彼女を実家の法事に連れて行くことを
恒夫ができなかったのも普通だと思う。
そしてそんなジョゼとは
別れても友達でいられる相手ではないから
悲しいというのもすごくよくわかる。
個人的にはサークルのコンパで
恒夫が金井晴樹を殴るシーンが好き。
金井晴樹は、ジョゼと恒夫が
拾った彼のノートの誤字を笑っていた相手。
金井がジョゼを思い出させた相手だから
というのが殴った一番の理由だが
もう一つそんなバカな金井と
自分が同じ大学だというのもあると思う。
そういうのを話として持ってこれるのがすごい。
共感できる部分が多かった。
「スウィングガールズ」の上野樹里が好演。
役柄が全く異なるので両方見るべし。

12月26日

映画「スーパーサイズ・ミー」

マクドナルドを1日3食1ヶ月間食べ続けるた
スパーロック監督による体を張ったドキュメンタリー。
スパーロック監督がこのような試みを
始めようとしたきっかけは一つの訴訟。
肥満の原因がマクドナルドにあると
2人の少女がマクドナルドを訴えたことがあった。
判決は、原告はマクドナルドが有害であると
証明することができなかったとした。
その判決を知った監督は、自分の体で
マクドナルドが有害かを証明しようとした。
実験を始める前に監督は3人の医師の協力を得ていた。
どの医師も体重、体脂肪率、
コレステロール値の上昇は予想していたが、
健康を著しく損なう結果は予期していなかった。
しかし、肝臓の酵素の数値が上がり、
肝炎を引き起こしている状態に。
アルコール中毒の患者と似た症状とのこと。
この状態を元に戻すのに、
監督は5ヶ月の野菜中心食を要したことは重要だ。
この「マック食」の一番の問題はスーパーサイズ。
マクドナルドを食べる回数はゼロが理想的だという
医師の言葉を作中で引用しているが、
この映画で言いたいことはマクドナルドを
全く利用するなということではないだろう。
提案はスーパーサイズを止めないか?ということだ。
マクドナルドを全く利用するなという提案は
低所得層たちには現実的ではないのは明らかだ。
マクドナルドは安いからおなかいっぱい食べても
経済的負担が少ないのだが、
マクドナルドはおなかいっぱい食べる食事ではない。
スーパーサイズがこの映画の公開後
マクドナルドで廃止され、
この映画はかなり大きな影響力があったようだ。
ビッグマックを毎日2個以上食べている男が出てくるが
ポテトはめったに食べないので
コレステロール値は200以下と正常。
そしてもう一つはファーストフード以外も
食べなさいということ。
そんなの当たり前じゃんと思ってしまうが、
アメリカに旅行中に週に3〜4食では
きかないくらいの頻度でファーストフードを
利用していた私としては
マンハッタン島に83店舗マクドナルドがあるような
アメリカが置かれている環境では
つい食事が面倒になると
毎日マクドナルドという状況は
決してありえない話ではなく
考えさせられる話だった。
実際、映画を見た後、
昨年のアメリカ旅行でファーストフードを
何回食べたか思い出そうとしてしまった。

12月12日

新書「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」(加藤秀一)

明治以降の結婚に関する言説を
時空軸に沿って追っていて
私たちの結婚観がどのようにして
形成されていったかが述べられている。
著者が読者に一貫して意識させていることは
好きな人と結婚するということの意味である。
家庭から新しい世代の国民が作られるというのと
新しい世代は親の世代を遺伝して生まれるという
この2つの家庭観が国の家庭政策を決定させてきた。
晩婚化、独身者の増大は明治期から懸念されており、
結婚をし、子供を持つことそのものが
幸せであるという結婚観が人々に浸透していった。
結婚をしていない30代の女性を
「負け犬」とした負け犬論争など、
いまでも「結婚=幸せ」という見方は
私たちの間に根強くあるだろう。
また一人の人と一生の愛を誓う
キリスト教的結婚観は安定した家庭を築くのに貢献し、
日本の家庭政策にも輸入され、
畜妾制が否定され、一夫一妻制が定着した。
加えて国家が家庭に干渉することで結婚に
「していい結婚」と「してはいけない結婚」の
2通りができることになる。
前者は善良な子孫を生み出す結婚で、
不適当な縁を結び不良なる子が生まれる結婚が後者となる。
前者には法的保護や産児に懸賞を与え
後者は遺伝性疾患の持ち主の隔離などによって防ごうとした。
それぞれ「積極的優生学」「禁絶的優生学」と呼ばれ
国民の淘汰を狙った優生思想は
戦後まで家庭政策の下敷きとなり続けた。
むしろ産児調節は1948年に優生保護法が施行され、
戦後に盛んになっていった。
このように明治期以降の国家の家庭政策が
わかりやすくまとまっているのだが、
本著を読んでいて私は次のような疑問が生まれた。
「家つきカーつきババアぬき」や「三高」といった
人々の理想の結婚相手というのは
どのように生まれていったのだろうか。
国の政策が国民の結婚観に影響させ
さらにそれをメディアが補強していったのは間違いない。
幸せの中で家庭によって得られる部分の割合が、
「結婚=幸せ」といった言説の中で以前よりも強くなり、
少しでもよりよい結婚相手をといった意識が
人々の間に定着しているのは間違いなく、
(だから恋愛と結婚は別といった結婚観が生まれるのだろう)
そうなるとその「よい結婚相手」というのが
結婚観を考える上できわめて重要となるはずなのだが。



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