2月28日

映画「リメンバー・ミー」

英文科3年生の女性ソウンと
広告創作学科2年生の男性インの無線通信。
ソウンは1979年の世界にいてインは2000年の世界にいる。
無線通信が時間軸を超える。
2人は交信を通じて、お互いを結ぶ偶然の接点を知る。
そして一つの恋の終わりを知る。
そのことを知った2人が取る行動が見ていて切ない。
話の最後の最後で大逆転があって
「実は!」みたいなこじつけがなく、
叶わぬ恋は最後まで叶わないまま。
私たちは失恋で強いショックを受けても
そこから立ち上がって行くように、
この映画にも失恋を乗り越えるポジティヴさがある。

2月22日

新書「カルチュラル・スタディーズ入門」(上野俊哉/毛利嘉孝)

カルチュラル・スタディーズの入門書であるが、
マルクス主義やポスト構造主義を踏まえた本書の展開は、
これらの社会学、哲学に慣れていないと敷居が高く感じる。
私も深く理解できなかった部分が多かった。
物事を語るとき、一つの答えが求められることが多いが、
物事の見方や語られるべきことは一つではないと
読了後に実感できる。
これは他の学問を取り扱った書籍では得難い点だ。
私はこの点で読む価値があった。
映画やコミックに描かれている世界を詳細に分析し、
そこで描かれている社会が前提としているものや
その社会を支えている政治を明らかにする。
そんなテクスト分析を通じて
私はカルチュラル・スタディーズを知った。
フェミニストがCMやアニメを分析し、
そこで描かれている優位的な男性を指摘する。
フェミニストたちはそれによって
何を明らかにしたいのだろうか。
それはそこで描かれている力関係だ。
典型的な例では優位的な男性と
従属的な女性という関係。
言動の際の意思決定において
私たちは自分を取り囲む関係に影響される。
私たちの周りの社会に存在するさまざまな力
(言い換えれば政治や経済など)を取り出すのが
カルチュラル・スタディーズだ。
そしてその力関係は重層的だ。
職場で被支配的なアフリカ系男性が
家庭に帰ると妻に対して支配的だったり、
ある一つの事象を一つの単語で表すのは不可能だ。
カルチュラル・スタディーズの功績の一つに
研究結果を一つの命題に求めない姿勢ではないだろうか。
カルチュラル・スタディーズのさまざまな側面を紹介した
本書を通読するとそのことはよくわかる。
フェミニズムのある言説が
西洋中心主義と指摘されるようになったり、
社会学は多文化主義を経験し、
物事や学説を以前よりも重層的に捉えるになった。
前提として疑わなかったものを疑うことの重要さを
多くの社会学者は認識している。
西洋中心主義から脱却し、
マイノリティの視点を取り入れる際の
本書の指摘は的を得ている。
被支配的な立場にいるマイノリティは
アカデミズムの場で語る言葉をなかなか持てない点だ。
経済的弱者は豊かな者に比べて
学問を含めさまざまなものへのアクセスが恵まれていない。
アフリカ系の学者が増えていたり、
アカデミズムの場でマイノリティの声が
以前よりも反映されるようになったが、
マイノリティの中でも特に被支配的な立場にいるものまでには
アカデミズムの場に開かれていないだろう。
被支配的な立場にいないものが
マイノリティを考慮しようとするとき、
マイノリティに対する優位的な同情が含まれていたり、
表面的なステレオタイプで語られていたり、
実際以上に美化して語られるそうした危険性を踏まえ、
自己批判の目を忘れずにいることは、
社会を批判するものの責務だ。

2月14日

映画「ラスト・プレゼント」

「イルマーレ」ほかのイ・ジョンジェと
「春の日は過ぎ行く」ほかのイ・ジョンジェ主演の作品。
新しくはないのだが、
売れないコメディアンという設定がいい。
コメディアンって人を笑わせているる当人は
楽しい心境にないのはよくあることだし、
30になるというのにバラエティー番組の前座や
クラブのショーでしか出番がないのも珍しくはない。
売れ始めるまでの期間が長い笑いの分野では
若くしてスターに立てるのはごくわずかだ。
自分が売れることで頭の中が一杯で
妻の体調に気づかなかった夫が妻の病を知り
健康食品などを買い込んで来たり
妻の恩師の消息を探したり
妻のために動き出した夫が
仕事でも軌道に乗っていく。
人の痛みや苦しみを知ることで、
夫の芸が成長していく過程に感動する。
また、夫の仕事の邪魔にならないように、
不治の病に苦しんでいながら
それを夫にひた隠しにする妻の姿が涙を誘う。
個人的には情報を詰め込みすぎてなくて
夫婦愛がずっと中心に描かれているのが気に入った。

2月11日

映画「ムーンライト・マイル」

ダスティン・ホフマン、スーザン・サランドン演じる
夫婦ベンとジョージョーの一人娘ダイアナが
殺人事件に巻き込まれ殺された。
ダイアナの婚約者ジョー(ジェイク・ギレンホール)は
ダイアナは亡くなったが、婚約した当初のまま
ベンたちと同居しベンの仕事を手伝い始める。
ジョーはベンとジョージョーに
伝えなければならないことを伝えられずにいて
ダイアナが亡くなった今この妙な親子関係はギクシャクしたまま。
またジョーはバーティー(エレン・ポンペオ)と
ダイアナの死後知り合い、二人はお互いに惹かれていく。
しかしジョーは、ベンとジョージョーに求められるまま
ダイアナの遺族として振舞っていかなければならず
バーティーの気持ちにきちんと応えられずにいる。
バーティーもまた、ベトナム戦争で恋人を失った心の傷を
今なお癒すことが出来ずジョーを必要としているのだ。
ダイアナを失った3人とバーティーは
それぞれ愛する人の死を乗り越えていく。
人生には辛いことがいろいろある。
そしてそれを乗り越えればもうそれだけで
悲しみから少し解放され人はハッピーになれる。
悲しみを乗り越えたこと、そのことがハッピーエンドなのだ。

2月7日

映画『私は「うつ依存症」の女』

80年代に若くして音楽ライターとしてデビューした
エリザベス(リジー)・ワーツェルの自伝小説の映画化。
高校時代は名門大学に行くことを親に期待され、
大学に入り雑誌に投稿した文章が賞を取った後は
次々に文章を書くことを期待され、
リジーはうつ病に苦しむ。
うつ病でない人がうつ病の人たちへの
理解を深めてほしいという
制作者の意図が作品に込められている。
作中のリジーの友人の態度、
母親が強盗に遭い病院に付いてきて欲しいというリジーの申し出を
「もうだめ。あなたの頼みはきりがないわ」と
断るところとかに違和感を感じない私は
間違いなくうつ病でない人。
そのことにこの映画は気付かせてくれた。
ただ励ましてもただ慰めてもたぶんだめで、
病状は必ず周期的に良くなると
ポジティヴでいてあげることがたぶん必要なのだろう。
そして押し付けもせず放っても置かない態度。
原題の「プロザック・ネイション」に
抗うつ剤を安易に処方してしまうアメリカへの批判が見える。
「だいじょぶ?カウンセリングを受けて
プロザックを飲めばきっと良くなるわよ」みたいな
老人ホームが姥捨て山になっている状況と似ている。
カウンセリングとプロザックが姥捨て山になっている。
ただそれでも日本の状況に比べれば
アメリカはうつ病患者への理解は高い。
うつ病患者が自分がうつ病であることに気づくことができ、
うつ病患者の居場所であるカウンセリングやプロザックが
うつ病でない人の近くにある。
誰もがなるおそれがあるといううつ病について
考えさせられる映画だった。

2月1日

映画「人生は、時々晴れ」

「秘密と嘘」のマイク・リーの2002年の作品。
この映画を私は家のリビングで一人で見たのだが、
観た後の感想を親には言えなかった。
内容はロンドンの団地に住む三家族の話。
その中のタクシー運転手フィルは、
昼過ぎまで寝ていて稼ぎもぱっとせず、
会社への無線代もままならない。
息子のローリーは妻の言うことを聞かず、
自分はほとんど何も言えずにいる。
息子の立場から見れば、
昔は「大きくなったらお父さんのようになる」
とか思ってたけど、
父親の社会での立ち位置も
今では知っているといった感じ。
家族の中で自分の呼び名は変わらないけど、
親と自分の関係は変わっている。
なのにそのことに気づかないように振舞う親。
そんな「嘘じゃん」って思う瞬間って確かにある。
だけど自分にはまだまだ
一人では生きていけない弱さもあって
心臓発作で病院に運ばれた、
病室でなかなか来ない父親を待っている。
父親と母親の関係だって、
恋愛以外の感情でつながっている部分が多く見え、
結婚した当初とは違った形になってるはず。
ラブラブだったのが放って置かれるようになってきても
変化しながらも自分の居場所が
家庭であることも事実。
何年も一緒に暮らしてれば
家族って完璧によいものであり続けたりはしないけど
基本的にはよいものなんだと思う。



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