3月26日

小説「ナラタージュ」(島本理生)

現役大学生でいま注目の作家の話題作。
この話に作者の体験が入っているのかとかは
あまり興味ないが、リアルだった。
社会人で結婚間近の主人公が大学生のときの話を振り返る話で
大学生がこの小説なかでリアルに描かれている。
作者が大学生であるから自然に持てる視点を感じる。
主人公が大学生の男の子と付き合うことになるのだが、
その男の子の様子がリアルだった。
自分が置かれている、いま主人公と付き合っている
という状況にまだ慣れていなくて
男の子が二人の距離感に不安を感じてしまうところが特に。
話のメインは、卒業した後部員が減った高校の演劇部を手伝う話で
大学生の視点で、今も好きな顧問の先生のことを
高校時代に彼に思いを寄せていた頃を思いながら思う
(文章で書くと複雑だけどよくあること。
今も変わらず好きな人のことを、その前から好きだったこと、
当時のことを思い出しながら更に思いを強めていっている)
その描写がいい。
思春期の頃って過去に知り合った人も少ないし、自分の世界も狭いし、
この先、この人以上に私が好きになる人は現れないんじゃないかと
今好きな人に対して思ってしまう。
そういった好きな人のことを思う強い気持ち、
相手のことが好きという自分の気持ち一つ一つを
大切にしようとしてる感じが伝わってくる。
気持ちが軽くない。
恋愛ってその人の内面に大きな影響を与えるすごいことで
誰かを好きになったとき、その気持ちを軽く扱ったりは
やっぱりしてはいけないなと、この話を読んで思った。

3月25日

小説「ブロークバック・マウンテン」(アニー・プルー)

今年のアカデミー賞作品賞候補の原作。
作者は「シッピング・ニュース」の人。
内容は、放牧地での短期労働で知り合った2人のカウボーイが
この期間に関係を持つようになる。
忘れられない経験をしたその4年後、2人は再会する。
そしてその後2人は年に数回逢瀬を楽しむようになるが、
お互いに妻がいて保守的な土地に住む彼らを取り巻く環境は
それを楽しむ状況になく、2人の周りには変化が訪れ
やがて2人の関係も。
私は性的な対象として同性を見たことがないが、
辛い労働だったり、一緒に起こられた経験だったり、
そういった特別な体験を共有すると
2人の関係は強固になるのは自然なことで、
そういう強い結びつきでいる男友達が私にはいる。
だから、保守的な土地であっても、
ホモセクシュアルに目覚める可能性は誰しもが持つ
というのはまあ割と自然に受け入れられる。
私はキリスト教徒でないので、
ゲイが保守的な土地でどれだけ生きづらいかというのが
いまいちピンと来てなく、
2人の再会から結末にかけても割とさらっと読んでしまった。
放牧地での2人のシーンも割と短く、
そのために再会のシーンでも読んでてテンションが上がらなかった
というのもあるかもしれない。
う〜ん。悪い小説ではないんだけど。

3月13日

イベント「ジョン・レノン IN NEW YORK CITY」

ボブ・グルーエンの写真展。
この展覧会のチラシにも使われている、
「NEW YORK CITY」と書かれたTシャツを着た
ジョンの写真が一番有名か。
アルバム『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』の
ジャケット写真も彼によるもの。
あとは、自由の女神像の前でVサインしている写真は
絵葉書にもなっているし見たことある人も多いのでは。
カメラの前で笑っている写真がいくつもあって
ジョンの茶目っ気を感じた。
歯を見せて「笑顔!」って感じの表情で。
何ていうかお約束っぽい感じ。
それをやり切るところにユーモアを感じる。
ウォーホルとかボウイと一緒にいる写真とか
豪華な写真は特に見てて楽しかった。
あと思ったのはジョンの存在感。
私が真似したら絶対ダサいだろうというような
長髪とかもジョンだと絵になるんだよなぁ。

3月12日

映画「星くず兄弟の伝説」

1985年の作品。ポジティヴ。
シンゴとカンが「星くず兄弟」を結成しスターになり
落ちぶれるまでが描かれている。
マリモ演じる戸川京子が見どころ。
劇中では「マリモの気持ち」を歌うシーンがある。
音楽的には、80年代の打ち込みニューウェーヴ。
さすがヒカシューをプロデュースした近田春夫が
製作総指揮、原案、音楽監督を担っている作品。
人気が出ればレコードが売れて金持ちになれると信じられていた
この頃のポジティヴさが見ていて気持ちがいい。
景気回復に向けて進もうとしている今の日本に必要なのは
こういうポジティヴさだろうなぁ。

3月11日

イベント「アンリ・カルティエ=ブレッソン展」

「決定的瞬間」という彼の写真集(英語版)のタイトルが、
彼を語るキーワードとしてよく用いられる。
彼の写真は、写された瞬間の前後を想像させるものが多い。
ポーズを決めすぎてない感じ。
完成された構図と完成されてない、断続している時間軸の中のある瞬間。
このバランスが見るものを魅了するのだと思う。
この彼のセンスは、はかないものへの感性とも言えるかもしれない。
その瞬間が永遠ではないことを反語的に語っているよう。
気になった写真をいくつか。
<バレンシア,スペイン 1933年>
展示番号110。ペンキがはがれた壁の前で空を見上げる少女。
この中に美しいものや着飾ったものはない。
口が半開きで、写真を撮られると知ったらしない表情。
美しくないものに惹かれるのは、芸術が語ることができる
私たちの世界、とりわけ生はきれいな面ばかりではないからだろう。
<メキシコシティ,メキシコ 1934年>
展示番号350。若い女が年老いた女(母親か)の膝の上に頭を乗せ横になる。
老女は女の腰に肘をついている。
言ってみれば何気ない風景。だからこそリアルで、
ここに写し出されている絵には愛を感じる。
<シエナ,イタリア 1933年>
展示番号143。高台に大きな建物の影。写真の右半分を覆っている。
中央上に東屋。写真手前の日が当たっている部分には人が2人。
東屋や人を俯瞰で撮っている。
これは2人の人を撮っているのではなく、
高台に2人しかいなく、大きく開いた空間を撮っている。
世界から何かを切り取るとき、そこに何かがあることを切り取るより、
何もない部分を切り取るほうが難しいと思う。
私も趣味の短歌で何かを「ない」ということで切り取れたらと思う。
<収容所からの開放,デッサウ,ドイツ 1945年>
展示番号182。子供を写している。中央に子供がいて、
周囲の大人たちは腰から下しか写っていない。
写真とは世界をどう見るかという表現で、
こうして大人が腰から下しか見えない視点には
こうしないと見えない世界があるなと思った。
あと面白かったのは有名人のポートレート。
レンズを向いていない写真で、いい雰囲気を写し出しているものがいくつもあった。
人は誰かと正対しているときにずっと相手の目を見ているわけではなく、
時々視点をずらしたりする。
そういうリアルさがこの写真からは感じられた。
「アンリ・カルティエ=ブレッソンの魅力を語る」という開催記念座談会も面白かった。
「写真はartか」という問いに、「人間が人間らしさを求めるものはartだ」と
誰かが見解を述べていて、これには強く共感できた。

3月5日

イベント「MOTアニュアル 2006」/「転換期の作法」

東京都現代美術館でやっている2つの企画展を見てきた。
一つが「MOTアニュアル 2006」。もう一つが「転換期の作法」。
前者は毎年やっている企画展で毎年旬のアーティストを集めている。
今年のタイトルは「No Border」。
サブタイトルが、『「日本画」から/「日本画」へ』。
岩絵具を用いているが絵の質感が伝統的な日本画とは異なるものや
アクリル絵具などを用いて伝統的な日本画のモチーフを描いているものなど
伝統的な日本画の文法からは離れた絵が多数あった。
気になったものについてコメント。
松井冬子の幽霊画からは、目に見えないものを描こう
という意思が確かに伝わってきて、
彼女が写真を撮ったら面白いだろうなぁと思った。
篠塚聖哉のタイトルの話も面白かった。
タイトルは描き終わってからつけるとのこと。
画面から感じる音と言葉から感じる音を合わせるとのこと。
そしてそのときに少しズレを意識して
タイトルがすっと入らずにタイトルを意識してもらえるように
といったようなことを思っているとのこと。
絵画の画面から感じる音って言われてみれば確かにあるけど
絵画を見ながらほとんど意識したことがなかったことに気がついた。
彼が用いているアクアレルアルシェ紙が面白かった。
洋紙の材料で和紙の肌触りを再現しているような感じだった。
前田久美は雲肌麻紙に青墨、岩絵具、顔料を用いていて
道具は日本画的だが、はっきりとした輪郭や
服の白を濃淡つけずにフラットに塗っていたりポップアート的な面が。
そんな一面と、帽子の山の影や目鼻の影などは薄く陰影をつけていて
ポップアート的なところとそうではないところが
画面の中で調和していて面白いと思った。
MOTアニュアルの中で一番良かった作家だった。
天明屋尚は、以前雑誌に自分の絵を発表していたことについて、
自分の絵とイラストレーションとの違いを次のように説明している。
「他者が書いた文章を説明する役割をもった
カット的な挿絵(イラスト)といった形態を全くとっていない」。
自己表現に対するプライドみたいなものを強く感じた。
彼はポップアートでよく用いられるアクリル絵具を用いて
日本画的な線を用いて金剛像など日本画のモチーフを描く。
アクリル絵具でもこんなに濃淡が出せるんだと思った。
日本の古い戦闘機(詳しくない私にはゼロ戦に見える)を
描いたものがあるのだが、
その翼に光が当たった感じやところどころ色あせた感じなどが
とてもリアルで、そういったのもアクリル絵具で描いていた。
転換期の作法は、冷戦終戦後の中東欧にスポットを当てたもの。
ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術が
これだけまとまって日本で見られる機会はそうないのではないだろうか。
ビデオ作品が多くて、時間がなかった私は
それらをほとんど鑑賞できなかったのが残念。
全体的にはポジティヴさが感じられる展覧会だった。
高度経済成長期の日本の美術のテンションを思い出した。
芸術家集団アゾロの<<芸術家は何をしてもいいの?>>。
(英題は"Is artist allowed to do anything?"")
彼らがウォーホル展のポスターに落書きしたり、
立小便をしたりといった映像が続く。
そういうことを思い、実践してみるところに
芸術というものが何らかの力を持っているということを
まだ信じられている感じで、芸術に対してポジティヴだと思った。
クリシュレフ・キンテラの「製品」シリーズも面白かった。
家電らしきものとその箱が置かれている。
それは柄のついた丸いフォルムでコードやプラグもついている。
箱には騒音がないといった説明文がある。
説明文はいろんな家電でよく用いられているコピーで
この家電ならではといったコピーはなく、
何をする機械なのかは、本体からも箱からも読み取れない。
しかし、ここには我々が見て家電と認識して安心させる「家電らしさ」がある。
人々が持つ抽象的なイメージを具体化させていて面白い。
ラクネル・アンタルの<<ユーロファーム:プーモ 理想的な食品>>、
これも面白かった。
見たことのない果物が描かれたジュースや缶詰がある。
説明文によるとこうだ。
プーモは人間に必要な栄養が理想的なバランスで含まれた果物で、
遺伝子技術を駆使したユーロファーム社の新製品。
これを見てもあまり食べたいという気が起こらない。
自然が工業化されることについて作者が思うことが伝わってくる。
工業化が進んで、芸術にも明るい感じが現れていた。
もう少し社会が豊かになって、
富裕層の中、中層階級の中で貧富の差が出てくるまで
社会が成熟したとき、彼らはどんな作品を生み出すのか。
そういった興味が沸いてきた。

3月1日

映画「三年身籠る」

妊娠して3年胎児が出てこないなんてコメディみたいだけど、
このシチュエーションを笑うことができなかった。
最初は妊婦の普通の風景として話が進む。
話が進んで、妊娠18ヶ月目では夫が強い不安を露にする。
通常の妊娠の十月十日だって、
妊婦は9ヶ月とかずっとつらいのに
夫は「10ヶ月したら終わる」みたく
妻の妊娠に対して他人事な感じがした。
終わると思っていた10ヶ月が経っても生まれてこなくて
最初はイライラしていただけなんだけど、
いつ生まれるか分からないという状況が逆に
父親になるという自覚を芽生えさせているようだった。
私もこの映画を見なかったら、
将来、妻が妊娠してもどこか他人事だったような気がする。
もちろん、妊娠を代わってあげることはできないし
妊婦の辛さや気持ちが本当に分かりっこはないんだけど
でも、相手が本当に辛いときって、
その人としては遠慮をしていても、その辛さを前にすると、
やっぱり本当の気持ちって表に出てしまうと思う。
そういう辛そうなところを目の当たりにしないと
相手の辛さって残念ながらなかなか察してあげられない。
ましてや自分が全く経験したことなく
将来も自分が経験することはないだろうという辛さなら。
目の当たりにしても、相手の期待ほどに
察してあげられているかといったら疑問だし。
主人公冬子(中島知子)の妹、緑子(奥田恵梨華)が
恋人海(塩見三省)に「女の子のように慰めて」と注文を出し、
海が女の子のように慰めたところ
「それは男の子の前での女の子だよ」と文句が入る。
自分では分かっているつもりになっている物事って
やっぱり自分が目にした側面のみで
全体を捉えがちだと思う。
そんなことを考えさせる深い映画だった。
海と緑子のやり取りは、
男女のそれぞれの嫌なところがたくさん描かれていたり、
この映画が伝えてくるものの力は強かった。
男のいい加減さ、女の非論理的なとことかいろいろ
出てくる場面から思わず目を背けたくなるくらい。
この映画を再び見ようとは多分思わないけど、
この映画のことはなかなか忘れられない気がした。



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