6月25日

イベント『超・一般教養講座「社会と自分を育てるために」』

6/23に行なわれた京都精華大学の公開講座。
3人の講師による全3回の講座の3回目。
今回の講師は熊倉敬聡。
「インター・キャンパスの創出による多文化共生の可能性」
というテーマで熊倉さんは大学の活動について考えていて
これについての話がメインだった。
大学が地域に対して閉ざしていて、
そういう閉塞的な状況を打開しようとしている。
熊倉さんが「京島編集室」ほかで行なっているのは
授業の一部をキャンパスの外(オフキャンパス)での
フィールドワークに移そうというもの。
熊倉さんの言葉をそのまま借りると、
体験(オフキャンパス)と
理論(オンキャンパス)が相互作用するような
リベラルアーツ・カリキュラムの創造とのこと。
まだ、面白いことを敢えて外でやろうみたいな
頑張ってる感を感じてしまったが、
21世紀的ライフリテラシーを求める、
という姿勢は共感できた。
これは21世紀の現在、20世紀的な資本主義中心ではない
新しい生き方(art of living)を求めるというもの。
哲学を取っていなくても、何らかの形で
学生は「どう生きるか」という命題に触れるし
学生時代はそういうことを考えることが時期だと思う。
実学ではない学問を学べる機会が
いまの大学の講義という形では
学生の心に届いていないのは確かなので、
こういう新しい試みを行なうことによって、
学生がどう生きるか考えてくれたら、
これもとても意味のあることだと思う。

6月16日

マンガ「すーちゃん」(益田ミリ)

私は高野文子の「るきさん」が好きなのだが、
実際はるきさんの様にふっきれた生活はできない。
私たちは小さなことに悩み、
いろいろなしがらみから
生活はなかなか思い描いているようにはならない。
そういう等身大の生活をこのマンガはうまく描いている。
主人公はカフェで働く社員で
私が思わず共感したのは次のシーン。
店長に注意されてスネてるバイトをなだめるシーン。
主人公の心の中の独白。
「アンタ、別に辞めてもいいんだよ〜
などと思いつつ優しくするのは
いいことではないのかもしれないが
これも仕事だと考えれば悪いことではないと思う」
こういう「これも仕事だと考えれば」みたいなのって、
接客業でなくても仕事をしていればあること。
仕事って好きなことだけやってられたりしないけど、
お店をいくつか移っても飲食業で働いている人とか
一つの業種を続けてる人って珍しくなく、
そういう人って結局その仕事が好きなんだよね。
つらいこともこの仕事だから頑張れるってあるし。
20代後半から30代半ばくらいの働いている人にお薦め。

6月16日

イベント『超・一般教養講座「社会と自分を育てるために」』

京都精華大学の公開講座。
3人の講師による全3回の講座の2回目。
今回の講師は西谷修。
「エコノミーという病−ネオ・リベラリズムと現代」
のタイトルで現代世界論の話。
ここ150〜200年、人間の社会が
エコノミーで語られるようになっている。
特に高度成長期以降、その傾向は
さらに強まっているように見える。
宗教改革によって世俗の活動が肯定化され、
経済への社会の関心が高まった。
政治と経済が分けて考えられ
19世紀後半に経済学が登場し、
経済の脱政治化は一つの形を形作った。
その頃実社会では法人の設立が盛んになり、
所有など法行為の主体となるようになった。
これによって法システムの倒錯が生まれた。
経済の根幹をなす所有権はその対象を
土地や水など自然にまで広がるようになり、
例えば湖が産業化すると、
人々を漁業権のある者とない者、
雇用のある者とない者と分断するようになる。
湖の周辺に住んでいても
湖の恩恵に預かれない者が生まれてくる。
産業化すれば、経済活動の中心となる資本は、
儲からなくなればやめたり場所を移ったりするようになる。
そうして荒らされた湖だけが残ったとき、
それを「仕方ない」と諦めるしかないのか。
高度経済成長期以降特に、
グローバリゼーション化が進み、
世界の秩序のベースがより経済に偏ってきている。
人間の活動を効率で語り、社会をまず景気で判断する。
成功の内実は問われず、システムに適合して
財を成したものが偉いと、格差が正当化される。
そして経済的に脱落しないことが規範となる。
国家が「小さな政府」を志向するようになり、
経済的に脱落した者を政府が救えなくなっている。
彼らを救っているのが宗教的共同体。
経済的な価値以外を認める彼らは
国家とは合わない存在である。
彼らは国家ではなく、宣戦布告する相手にならない。
戦争は非対称的になり、
戦争が恒常化し、予防攻撃が肯定される。
世界はの秩序は平和かどうかではなく
安全かどうか(危険がないか)で語られる。
アメリカ中心の現状に対して批判的な話が多かった。
この経済中心の社会はこのまま続かず、
この先、人間の本能である快・不快の原則が、
他の価値観を生み出してくれないかなあと
私は楽観的に期待している。

6月10日

建築書「私たちが住みたい都市」

2004年に工学院大学で行われたシンポジウムを記録したもの。
特に第2回の部分が興味深かった。
戦後復興を担った2DKという集合住宅の基本形が
私たちの生活をいかに規定しているか、
この2DKという形はどこから来ているのか。
先日の内田さんの講演ではないが、
毎日の生活の場となる住宅が、
私たちの生活をアフォードしないわけがなく、
この本を読んで、建築、とくに住宅とは何だろうと思ったし、
建築家が背負う社会的責任は大きいと感じた。
2DKは西山卯三が考えた「国民住宅」に端を発する
と見ることができ、国が国民に与えている規範
という要素が否定できない。
満足な住宅がない中、効率的に住宅を供給し、
その中で住みよい暮らしを提案する。
戦後、家制度が崩壊した中で
2DKの家が想定した家庭、
つまり国が考える模範的な過程は子供がいる核家族だった。
しかし、今では子供を持たないDINKSや、
介護を必要とする親を持つ家族、
結婚しない人も増え、母子家庭も少なくない。
家族の形が多様化しているのに、
供給される家の形の大本は「nLDK」ばかり。
「nLDK」という形も大正期から戦中にかけて
いろいろな実験の中から生まれてきた形であり、
「nLDK」という形が現代の暮らしに
一部そぐわなくなっているのだから、
現代の建築家はもっと実験的な取り組みをするべきなのではないか。
そういった論調がいたるところで感じ取れ、
建築の現状に満足していないこと、
この現状を変えようと思っているところに好感が持てた。
この集合住宅を考えるとき、
もちろん、田舎はたまに帰れば十分で
田舎のしがらみから離れて、
自分がどこに引っ越しても同じような生活をしたい
という私たち国民のニーズがあったのも事実。
そして、「nLDK」という
最低限の豊かさを保証する形ができて以降、
私たちが住まいに強い関心を抱かなくなった、
住宅が高くて現状のまま諦めたという部分がある。
たまにでも帰る田舎があったからこそ、
普段は集合住宅で十分という意識が当初はあったはずで、
帰る田舎がなくなってしまった中
住むことになってしまった集合住宅は
住む者にとっての集合住宅の意味合いが少し変わってきている。
子供がいて共働きだったり、介護が必要な親がいたり、
SOHOのように在宅で働いているといった場合、
家の中だけで生活が完結せず、
託児所やデイサービスが必要だったり、
家の中に求められるものも変わってくる。
「食う」「寝る」「セックスする」「育てる」
これを狭い2DKの中に押し込もうとした
そういう意識が住宅政策から感じる。
ある型に沿って集合住宅を作っている側は
型をなぞっているだけであまり深く考えていないかもしれないが
ある型が作り続けられれば、
人々の生活を規定するものは強化される。
モノができあがることによって生まれる力は強い。
いまある住宅で新しい暮らし方というのを
住む側も考えていかないといけないなと思った。
第3回で西川祐子が挙げている「カンガルーハウス」や
「ももやま」の話は興味深かった。
これは西川氏が言う通り、ユートピアではないが、
自分の生活に要らないものは手放すかわり、
自分に必要なもの、保育所や個室などが
ある住まいを選び取った結果であり、
こういうのって誰かが既存の施設を上手く活用していくと、
その事例から別の誰かが思いつくんだろうなと思う。
住宅は私たちを強く規定するもの。
フーコーなど現代思想が好きな人は必読。

6月7日

イベント『超・一般教養講座「社会と自分を育てるために」』

京都精華大学の公開講座。
3人の講師による全3回の講座の1回目。
今回の講師は内田樹。
「時間・記憶・同期」のタイトルで現代思想論の話。
現代思想のイロハのイが聞けるのかと思ってたが、
そういったまとまった内容でなく、
内田さんが最近思っていることを
まとめる気もなく話していた。
今日の内容はアフォーダンス。
言うことがブレないと言えば褒め言葉だが、
6月7日の彼のブログ にアフォーダンスの話の肝が載っている。
お金払って聞きに行ってることを思うとこういうのは微妙だなぁ。
ここのブログに載ってない話もかなり聞けたけど。
面白かったのは東京という土地が持つ力の話。
東京には潮見坂という北から南への流れと
富士見坂という東から西への流れがあるという。
六本木の街の栄え方はその具体例。
東京のシティボーイがドライブというと湘南など
西に向かうという話もなるほどねと思った。
私は風水とか信じてないんだけど、
でも、複数あるルートの中で
なんとなく選んでしまうルートって確かにあって、
人の流れを生む、言葉ではなかなか言えないものって
確かにあるかもとは思う。
ジェンダーの流行以降、かなり知られたことだが、
私たち人間は周りの環境の制約を受ける。
内田さんが挙げたのは野口整体。
野口整体の治療は治った状態の体感を送る
という方法をとるらしい。
これは西洋医学にはない方法だが、
人間がいかに環境に影響されやすいかを考えれば
こういう治療法が生まれるのも当然かもしれない。
だからこそ、私たちにとって
どの環境を選ぶかはとても重要なものであり、
そうした選択をする上で気配を察する力が重要になってくる。
そういった気配を察する力というものを
日本の教育機関は養うどころか無視していると
内田さんは話していた。
そういった気配が体に伝えてくるものはメロディアスだ。
まだ起きぬある種の予感に現在の現象が引っ張られている。
時間というのは、人間にとって重要なことなのだが、
ビジネスというのはすぐに結果、言い換えれば換金性を求め、
時間のファクターをゼロにしようとする。
こうした見方は私たちのものの見方に大きく影響を与えていて
教育の分野でも実学が好まれている。
他にも話がいろいろ脱線したが、
私の興味を引いたのはこの辺の話。
最後に質問もさせてもらい、
今まで政府は社会を一気に正しくしようとしたが、
社会は一気には正しくならないとか、
システムは堅牢なように見えて、ゆすれば隙間が生まれるし
誰もやってないことをビジネスモデルにするチャンスはある
みたいな話が聞けた。
内田さんは楽観的な人で、だから話を聞いていて楽しいし
人気があるのかなと思った。

6月6日

演劇「まとまったお金の唄」(大人計画)

新町の大阪厚生年金会館にて大人計画初体験。
2階席だったので、細かいところまでは見えなかった。
感想は濃い。
ネタが次から次へと繰り広げられる。
その内容も様々。
動きで笑わせるもの。
シチュエーションの妙で笑わせるもの。
無意味な繰り返しや語感など台詞で笑わせるもの。
モノマネ、往年のTV番組のパロディ。
笑いの要素になるものは何でも入れている。
笑いに貴賎があるとしたら、その貴賎を無視した笑い。
高度な計算がされているのに
それを構成しているのがしょうもない下ネタだったりする。
かなり人気は広がっている劇団だが、
それでも小劇団自体が通好みなものだし、
大人計画も通な人たちの間で人気が出た劇団だし、
彼らの笑いがわかるか不安な人もいるかもしれないが、
「くだらないなあ」と苦笑する笑いが多いので
彼らの舞台は深く考えずに見に行くことができる。
個人的に「おっ」と思ったのが
何度か挿入される歌のシーン。
ミュージカルという手法を取らずに
BGMのように使ったり、主人公がふと口ずさむような形で
演劇に歌を取り入れていてそれが上手くて
「こういう方法もありか」と思った。
ミュージカルだと「さー、歌うぞ!」って感じだから。
あと思ったのは舞台と映画とテレビは
それぞれ違うという当たり前のこと。
舞台の俳優さんが人気が出るとすぐ映画やテレビに引っ張られるが
彼らの映画やテレビでの演技は舞台の上の演技とは違うということ。
いい体験ができた。

6月4日

映画「間宮兄弟」

江國香織の同名小説を
「の・ようなもの」の森田芳光監督が映画化。
2人暮らしのモテない兄弟が主人公。
兄がお気に入りのビデオ屋の店員直美や
弟の同僚の葛原先生、兄の会社の先輩の妻など、
彼らを取り囲む女性たち。
多少ネタバレさせると、
兄弟に恋人ができてハッピーエンドという
結末にしていないのが好感持てた。
そんな簡単に2時間の映画では恋人ができないから
彼らはずっとモテない生活を送ってきたわけで。
彼らのモテないっぷりがリアルに描写されている。
直美や葛原先生を誘ってカレーパーティーを計画した際、
彼らはどうOKをもらおうとするか話し合う。
普通だったら、いきなり家に呼ぶのは相手が警戒するので、
誘い出すネタとしてカレーパーティーが適切でない
ことに気付くはずだが、
彼らはカレーの腕に自信を持っており、
何カレーを作るかを話し合う。
このモテない男のズレた感覚がなんともリアル。
女性との間の取り方とかもそうだし。
本棚いっぱいの「こち亀」とか、
モテない感じが出てる小道具も充実している。
救いというか、そうでないと映画にならないのだが、
女性慣れしていなかったり、付き合うには問題がある彼らだが、
人間的にはとてもいい人たち。
実際は、モテなくて性格的にも歪んでる奴らも少なくないが
それだとリアルだけど見てて楽しくなくなる(笑)。



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