4月23日

イベント「こんどは現代美術!」

大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室での
大阪市立近代美術館(仮称)コレクション展。
まだ建設に向けては全く動いていないが
計画中のこの美術館に向け、
現在作品の収集が進められている。
その一部が公開。
チラシには約50点とあるがそんなになかった気が。
チラシにあるゲルハルト・リヒターや
ルイ・カーヌを確認できなかった。
私が気になったのは以下の作品。
やなぎみわ「案内嬢の部屋」
赤瀬川原平「大日本零円札」
持田総章「LOCATION '84-9-2」「LOCATION '84-9-3」
松谷武判「直線の8」
白髪一雄「無題」
やなぎみわの作品の魅力はシニカルな視点。
今回も商業施設らしき建物と
エレベータや受付嬢のような案内嬢の取り合わせが
妙だった。
うまく説明できないんだけど。
受付嬢付けてがんばりすぎちゃってる感じというか。
先端的な人が思い描く近未来って
一般の人はそういうのを求めてなかったりする感じ。
赤瀬川原平のは千円札裁判の経験の後に作った作品。
融通が効かない当局に対して
「これなら文句ないだろう」と
ユーモアのセンスを落としてる感じが
千円札のユーモアがわかる立場で見ると
当局をちょっと馬鹿にした感じがあって痛快。
持田総章のはキャンバスから椅子が飛び出している一組の作品で
一つは座面が、もう一つは背もたれが飛び出している。
いろんなコラージュを見たことがあるけど
キャンバスから椅子というのがなんかいい。
松谷武判のはキャンバスに接着剤を塗り隆起を作り
キャンバス全体を鉛筆で塗った作品。
キャンパスの隆起が不思議な質感を出していた。
全体が鉛筆で塗られていて色は平坦な部分と変わらなくて
またそんなところも噴き出す感じを想起させる。
アスファルトの割れ目とか。
白髪一雄のは天井にたらしたロープで身体を支えながら
素足で絵の具をキャンバスに塗りつけた作品だそうだ。
こういう絵の具の質感を表に出した作品を
欧米とほとんど時差がなく日本でやっている作家がいるのが
ちょっとうれしい。
まだこの展覧会が認知されてもいないようで空いていた。
ほとんどの作品がキャンパス向き出しで、
絵の具の質感を間近で見れるのも良かった。

4月16日

イベント「アメリカ」

兵庫県立美術館で開催中のホイットニー美術館展。
印象的だったものをいくつか紹介。
ウィリアム・バジオテス「海岸」。
灰色がかった茶にくすんだ白。
日本画のような色遣いが印象的だった。
骨のようなものが描かれていて
その曲線が雲形定規で描いたような曲線で
この曲線にも日本画的なものを感じた。
ハンス・ホフマン「黄色いオーケストラ」。
絵の具が塗られたキャンバスの上に
更に絵の具を一塗り重ねる。
そうすることによって生まれた
絵の具が薄く塗られキャンバスが透けているところと
絵の具を幾重も重ねてキャンバスの上で
クリームのような質感が表れているところの対比が面白かった。
ロバート・コッティンガム「ラジオ」。
周りを映す金属の壁面に「RADIOS」のネオン。
描かれている街は一点のくすみもなく人の気配を感じない。
広告の看板のような絵で、そんな絵を間近で見ると、
普段遠くから見ているときは感じないような違和感を絵から感じた。
きれいなんだけど、それよりも「こんな街あるわけないじゃん」
という気持ちのほうが強い感じ。
エルシー・ドリッグス「ピッツバーグ」。
四本の煙突、曲線を描くダクト。
人工的なものが織り成す均整な美。
都市で画家生活を営むなら
人工的なものに見出した美は表現の題材になりうる。
こういうものを「どう?きれいじゃない?」と
提示しているところに共感を覚えた。
ウェイン・ティーボー「パイ・カウンター」。
消費社会における流通や情報の強さを感じた。
この絵を見たものはこれを見てパイとわかり、
多くのものはその味をも想像できるだろう。
ある種のパイが全国的に流通している社会が
存在していることに気付かされる。
この絵はアメリカ的な生活をしている者に対してと、
見る者を選んでいる作品なのだが、
多くのアメリカ人にとって、
パイとはこういうものということが当たり前すぎて、
この絵を見てもこの絵が見るものを選んでいるとは
きっと気付かないことだろう。
ヘレン・フランケンサーラー「アーデン」。
「にじみ込み」を絵の中で生かしている。
にじみ込みが現れることによって、
絵の具を塗る行為が強調されている感じがした。
ジャスパー・ジョーンズが絵の具の跡を
キャンバスに残したのとは違うやり方で、
行為性をこうやって表現できるんだと思った。
ジョエル・シャピロ「無題(平原の家)」。
テーブルのような木製の台座に銅版、
その上に家の形をした、銅版と同じ材質の立体が乗っている。
この作品を正面から見ると立体が立方体に見える。
握りこぶしをひと回り大きくしたこの立体は小さな箱のようで、
私たちが住む家というものについて考えさせられた。

4月2日

『Batucada Sa Calesa』(Bong Penera)

声がきれい。Ivan Linsを思い出させる声質。
1、2、6曲目の音楽は派手でボサノヴァというよりラテンっぽい。
3、5曲目はしっとりとしたピアノの弾き語り。
4曲目のインストも日本人好み。
電子ピアノを用いたリズミカルな演奏で
ピアノとドラムスの掛け合いがいい。
(こういうのをシンコペーションって言うんでしたっけ?)
戦前のジャズのような軽やかさがある。
だけどラテンっぽくて、キャラメル・ママを思い出した。
これはフィリピンのボサノヴァなのだが、
7曲目にアジアっぽさを感じた。
うまく言えないのだが、
日本の歌謡曲のようなブルージーな感じを演奏から感じたし、
ヴォーカルがどことなくニュー・ミュージック調。
8曲目は冒頭に書いたIvan Linsっぽさが割とよく出てて
ヴォーカルが重くなくて昼下がりに合う感じ。
ラスト10曲目は軽やかなピアノ、メロウなヴォーカルで
このアルバムらしい感じ。
全体としてはジャズ寄りなアルバムで、
ボサノヴァだが、夜っぽい感じ。
ヴォーカルがきれいなボサノヴァと言えば、
A&M時代のセルジオ・メンデス。
このアルバムも女性ヴォーカルがフィーチャーされた曲が
いくつかあるが、セルメンとの違いはそのジャジーさ。
セルメンの方がゆったりしてる。
このアルバムは演奏が詰まってる感じ。
次から次へとピアノの音が出てくる感じ。
Amazonで検索しても出てこないし、
扱ってる輸入業者も小さいところで探すのに苦労しそう。
私は梅田茶屋町のタワレコで買いました。

4月1日

イベント「私のいる場所」

東京都写真美術館恒例の新進作家展。
自身の主体を絶対化していない作家が多かった。
作品には自分が「何を撮ろうとしたか」という意思だけでなく、
そこには、自分にシャッターを押させた
社会とか作家の無意識とかそういったものが反映している
と捉えている作家が目立った。
写真はそうした目に見えないものも映し出す
饒舌なメディアであり、
そのことをどの作家たちも心得ている。
この写真展でこうしたことを考え、
このことは短歌を詠む上でも役立つと思った。
被写体との距離とか被写体がフレームの中でなす構成とか
何を見切るかといった問題は、
対象をどの視点でどの距離で詠み何を詠まないか
といった問題と共通点を感じた。
そして重要なのは受け手を意識すること。
日常を表現しようとすれば、作家と受け手が共に
日常を想起させるものを意識する必要がある。
これは日常を俯瞰できないと出てこない意識だ。
池田昌紀が「見慣れた風景を異化することによって
物事の本質を見抜こう」と語っているが、
この姿勢はとても詩人的である。
「常識」とされるものは、その前提が形成された後
時間が経つうちに、「常識」と実体の間にズレが出てくる。
表現とはこうしたズレが起きているもののリ・デザインである。
私がこの写真展で特に気になったのはNicole Tran Ba Vang
彼女の写真はとても変わっている。
ヌード写真と思ってみたら、身体にファスナーが付いている。
ファスナーがなかったら気付かない肉襦袢を
モデルが着た写真を通して彼女が表現しようとしているのは
身体というとてもリアルなものが他者に与える影響の大きさ。
裸はリアルなものだと思っているので
そこにファスナーを発見してしまうと
信じられるものをひとつ失うようなゆらぎが内面に起きる。
このゆらぎを乗り越えると、
私たちは絶対的に信じられるものなどないと思うし
常識というものが脆いことも知るだろう。



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