1月22日

イベント「プーシキン美術館展」

良かった。
印象派からキュビズムまで
近代・現代美術の流れを追える展覧会だった。
今まで印象派ってあまり好きじゃなかったんだけど、
印象派の良さがわかったのが個人的には収穫だった。
印象派って中学の美術のイメージがあって
アレルギーがあったんだけど、実は前衛的。
先人たちが描こうと思わなかった空気の流れや揺らぎを描こうと
先人たちとは違う、キャンバスに筆を置くような
タッチを生み出したわけで
これって当時はかなり前衛的だった。
そして印象派のすごいところは例えば木々を描けば
その緑が鮮やかなのはもちろんその木陰も鮮やかで
木陰が鮮やかなことによって澄んだ空気がリアルに表現されている。
その印象派からさらに先へ進もうと、
タッチをさらに細かく点描にした新印象主義や、
部屋の描写の中で部屋の壁紙とか、
印象派だったらぼかしてしまう部分も鮮やかに描く象徴主義など、
インパクトのある印象派に向かっていくパワーは
乗り越えるものが大きいからとても力強い。
そういった流れでマティスを見ると、
装飾的なナビ派を乗り越えようと、
少ない構成要素、色のかたまりで主題を伝えようという
意志があるのではないだろうかと見ていて感じた。
現代(この絵たちが描かれていたときから見ると未来)
の視点で絵を見ると見えてくるものがある。
例えばドランの「水差しのある窓辺の静物」。
部屋の角をキャンバスの中心に持ってきていて
部屋を三角形のように描いている。
奥行きを出そうとするこの構図に
キュビズムの始まりを感じた。
ロートレックの版画「騎手」は地平線を上方に置き
キャンバスの手前は広く取り
そこに走る馬が描かれているのだが、
手前に大きく描かれている感じが
クローズアップのようで映画的だった。
混んでいるのでなかなかじっくりと見れないが
印象派の辺りは特に少しキャンバスから離れて見ると
空気の流れとか空気の澄んだ感じとか
そういうのを描けてしまう印象派のすごさがよくわかると思う。

1月21日

映画「疾走」

SABU監督の最新作ということで見てみた。
思春期の揺れ動く心がリアルに描かれていた。
人間は徐々にしか成長できないし
自分の周りの小さな世界のことしかなかなか考えられない。
日本のほとんどの中学生はシエラレオネの中学生と比べれば
ずいぶん恵まれてるはずだが、
学校でいじめられたりしていれば
それだけでもういっぱいいっぱいなのだ。
それが一生続くわけではないと分かっていても
今苦しいものは確かに苦しいしそのことしか考えられない。
四捨五入したら30歳の私だって、
いまだにいっぱいいっぱいにすぐなるし、
10代の子に「すぐいっぱいいっぱいになるな。
安直な誘惑にも冷静でいろ」と言ったって無理。
私たち人間は弱い。
強くなるためにはだまされたりつらい経験も必要。
つらい経験をし、無条件には人を信用できなくなるが
しかし一方で温かい人とも出会う。
出会い全てを全否定はできない。
そう思えたラストだった。

1月9日

ルポタージュ「リサイクル・セックス」(安藤房子)

恋愛感情のない元彼や男友達とセックスをする女性たちに取材し
1冊の本にまとめたもの。
女性が女性に取材をしているし仕方ないのかもしれないが
男性の視点がほとんどないのが気になった。
このリサイクル・セックスの相手となっている男性の多くは
男性の方もその女性と付き合う気がなく
セックスと恋愛感情を分けて考えているのかもしれないが、
多くの女性同様に多くの男性もセックスを
精神的なつながりがとても重要なコミュニケーションと
考えていると私は思うのだが。
酔った勢いでとかは身体的な反射によるものだと思うが、
関係を続けていくとなったら、その女性を
異性として尊重できないと続かないと私は思うのだが。
コミュニケーションはギヴアンドテイクなんだから
自分が安らぎを得ることばかり考えてるのは勝手じゃないかと思う。
相手の男性が本気になりかけていて困っている
なんて女性の話もあるが、
関係を続けていればそりゃー本気になるでしょう。
そこで困っている女性に私はまったく同情できない。
この本でも基本的にリサイクル・セックスには
反対の立場をとっているのだが、
それは成功恐怖が直らないとか理由が女性の視点だけ。
リサイクル・セックスを続けていると
男性の気持ちとか男女間の間とかがわからなくなっていくのでは
と思うのだが、そういったことは書かれていない。
男性はセックスできそうという雰囲気に持ち込めたとき、
理性が性欲に打ち勝ってその流れを断ち切るのは
相手が自分のタイプとかけ離れてない限り難しいと思う。
男性も男性で、最初の数回は楽しくても
恋愛に発展しないセックスを続けるのは得策じゃないと思う。

1月8日

イベント「ドイツ写真の現在展」

京都国立近代美術館で開催中。
かわりゆく「現実」と向かいあうために、という副題がついている。
展覧会の概要はこちらの東京国立近代美術館のページに載っている。
恥ずかしながら、ベルント&ヒラ・ベッヒャーもミヒャエル・シュミットも
私はドイツの有名な写真家を全く知らなかったのだが、
ハーブ・リッツのようなアメリカの写真家とは趣が異なっていて面白かった。
全体的に内省的な作品が多かった。
そんな中シュペッカーの草木や車を写した作品は割と明るかった。
私はハーブ・リッツが好きなのだが、
彼の写真のような被写体の活力を伝えるといった作品はなかった。
言いたいことを言えずにいるような表情をしていた。
私が気になった作品はシュミットのシリーズ「統・一」。
虚ろな表情の人だったり、ナチスのモチーフを写していたりしていて
人間の多面性を見せたりや内に秘めた暴力性を暴いている作品だった。
ロッガンの作品でテーブルを写した作品があったのだが、
人の生活の跡を感じさせる家具のみが写っていて
人が写っていないのが逆に人間の喪失を感じさせる作品になっていた。
ルックスの子供を写した作品は子供が人形のようだった。
この瞬間がベストではないとしてもこれより悪い状況になる前に
いまこの瞬間を切り取ってしまおうといった、
何か失うものへの恐怖といったものを感じる作品だった。
先に取り上げたリヒター展もそうだが
「日本におけるドイツ年」の下、いままで馴染みがなかったドイツの芸術が
たくさん日本にやってきていて、去年今年といい体験をさせてもらっていると思う。

1月4日

イベント「ゲルハルト・リヒター展」

雨降る中わりと人がいてびっくりした。
観光気分で来ているカップル率高し。
ちょうど無料のガイドに参加できていろんな話を聞けた。
彼が写真を描いているのがポップアートの影響とは知らなかった。
ウォーホルのキャンベル缶やリキテンシュタインのコミックが
リヒターの場合は新聞の写真だったようだ。
表面がぼかされたあの彼独特の画風は
絵の具が乾く前に表面を軽くなぞって産み出されている。
ぼかすことによって匿名性を出そうとしているのがウォーホルと対称的で面白い。
ウォーホルの作品を見ていると
私たちがモンローやエルヴィス、毛沢東に抱いているイメージと、
その被写体やバックに使われているイメージを意識しないではいられないが、
リヒターの被写体はほぼどれも灰色と白のモノクロームで描かれ
どれも同じ感じでぼかされている。
それが誰であるのか題を見ないとあまり意識しない。
8人の女性の顔写真を8つのキャンバスで描いた作品があるが
その女性が全員ある一つの事件で殺された女性たちとは説明を受けないとわからない。
(彼の作品を見慣れてくるとショッキングな写真が少なくないことに気付くが)
彼は絵画が描く虚像というものを強く意識していることがわかる。
絵画も写真も第三者の目に触れるまでには画家や写真家の手を経ていて、
描かれているものはそのものではないということ。
そのことを受け手に気付いてもらいたくて写真を描いたりさらにぼかしたりと
人の手が加えられていることを強調しているのではないだろうか。
この展覧会では写真を油絵で描いている
フォトペインティング以外にもいろいろあって面白かった。
ガラス板を使った作品では見る者の姿がぼやけて映り込み、
それは対象をぼかして描く絵画と共通の製作姿勢が感じられた。
キャンバスやアルミ板の上に数種類の絵の具を乗せ
それをある1色で塗りつぶしてしまう
「アブストラクト・ペインティング」も面白かった。
灰色で塗りつぶしている作品が多いのだが
目を引いたのは白で塗りつぶしている作品。
白なので灰色以上に下が透けてみえる。
世の中には何かを隠していることを隠さないということがあって、
この作品を見てそんなことを思った。
ぼかした感じは画集やポストカードでなく実物の作品を見ないと気付きづらい。
画集やポストカードでしかリヒターを知らない人はこの展覧会に行って
特に解説を聞くと彼への印象が画集などで見たときとは大きく変わると思う。



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