9月22日

映画「10億分の1の男」

飛行機事故で唯一の生存者である強運な男が、
ホロコーストから生き延びたユダヤ人実業家と
自分の強運さを競う話。
強運というのは他人を蹴落とす能力で、
競う中で相手の強運は奪うことが出来ると
運の良し悪しを描いているのは面白いと思った。
生まれつき強運であっても、
慢心したり結果を焦ったりすると
強運が発揮されないというのも
描き方が身体能力のよう。
男と実業家の戦いが盛り上がりに欠けるのが残念。
男が勝ったのは、持って生まれた強運だけでなく、
実業家に勝とうとする強い意志があったから。
強い意志につながった恋人への愛などを
もっと描けばいいのに。

9月21日

イベント「"call it Anything"vol.1」

藤井郷子カルテットが面白そうだったので昨日行った。
藤井さんはすごい器用な人だなと思った。
また音楽の好みが広いのだと思う。
チック・コリアみたくやや技巧的
(クラシック音楽的)に弾いてたり、
矢野顕子っぽいハネた感じに弾いてた曲があったり。
手首で鍵盤叩いたり、
ピアノの鍵盤をつないでる弦を直接叩いたり、
フリージャズ奏法が力強くてかっこよかったり。
彼女が鍵盤をかき鳴らすと、
フロアに腰を下ろしてた観客達が総立ち。
ノリノリなロックやダンサブルな曲とは違う総立ちのノリ。
奏者の次の動きに目が離せない緊迫感と疾走感。
tpの田村夏樹もかっこよかった。
(田村さんは藤井さんの旦那さん)
ひたひたと迫り来るようなリードを
取ったときは、マイルスみたいだった。
そこでは藤井さんのピアノは伴奏に徹してた。
全体的にはアップテンポな曲で引っ張ってた。
スロウな曲で引っ張ってく貫禄って
もう少し年輪があったほうがいいのだろうか。

9月20日

『ハルカリベーコン』(HALCALI)

時にパフィー的、時に少年ナイフ的。
聴いていて彼女たちのルーツが見えてこない。
いろいろな曲調に合わせられ、器用なんだと思う。
感覚が若いなぁとは、やはり思う。
HALCAと私は9歳違うから当然なのだが。
introで「せーの、ハルカリベーコン」と
タイトルコールしたら、
私たちコギャル世代なら「yeah!」とキメると思うが、
HALCALIは「やっ」と微妙にはずす。
そして間髪入れずに「きもい」と自分たちを笑う。
彼女たちのデビューシングルでもある
2曲目「タンデム」での脱力した感じも、
(それがパフィーと並べて例えられる)
多分キメることがかっこいいと思っていない
彼女たちのスタンスが出てる気がする。
RAPに関しては、J-RAPの系譜を引いていると思う。
彼女たちのインタビューを読んでても
どうやら彼女たちはそれまでRAPの素養がなかったらしく、
プロデューサーのRIP-SLYMEの影響を
そのまま受けているようだ。
最後の母音をほとんど発音しない。
もしくは反対に最後の母音を引き延ばす。
単語内の母音の発音に(抑揚はあるが)
ほとんど強弱のない日本語を
いかにソウルのリズムに乗せるか、
先人のラッパーたちが取り組んできたことを
HALCALIにも感じる。
単語の最後の母音を引き延ばすのがソウル的で、
これがJ-POPのRAPとの違いではないか。
HALCALIとSPEEDのRAPを聴き比べるとそう感じる。
さて、少しHALCALIから離れた話を。
短歌のような音で定型化する詩も
だからこそ生まれるのだが、
日本語は基本的に3音の単語には3つの母音が伴う。
"RAP"という語も英語なら1音だが、
日本語なら"RAPPU"と3音になる。
"RAPPU"を"RAP"にするような単語の英語化は
ラッパーの前にも桑田佳祐などが行ってきたことだ。
話を『ハルカリベーコン』に戻す。
アルバム曲でコメントしておきたいのは
8曲目の「Peek-A-Boo」。
シングル曲である11曲目「エレクトリック先生」
もそうだが、英語を抑揚つけずに
怖じ気づくことなく歌う感じに
少年ナイフを思い起こさせた。

9月14日

学術書「サイバー・メディア・スタディーズ」(ケヴィン・ロビンス)

メディアの発達によって、
物事に対する私たちの考え方が変化したかを考察している。
「仮想現実」という言葉は、
メディアが発達するまでは無かった言葉である。
「仮想現実」にまつわる私の体験談を一つ。
私はメーカーの営業をしている。
ある小売店を訪問して、自社の商品の販促をする。
私の仕事はルートセールスで、
自社の商品が新発売時に自動的に納入される
一定の小売店に対して、
発注モレから売り損じが起きないようにしたり
小売店の売れ方の特徴から
商品の展開法を提案するのが仕事だ。
私が小売店の発注担当者と相談する際、
POSレジが導入されている店舗では、
ある商品が過去1ヶ月にどれくらい売れ、
現在庫がどれくらいあるかが端末から分かる。
そこから、どれくらいの在庫を持てば
売り損じを起こす心配がないかを
両者で話し合うことになる。
ここでの会話は、踊る大捜査線的に言えば、
「会議室」での会話であり、「現場」での会話ではない。
万引きロスがあるだろうし、
痛んでいて商品にならないものもあるかもしれない。
しかし、実際に在庫を見ずに
データ(仮想現実)上の数を元に商談するかと言えば、
データは普遍性が高いからである。
端末に「在庫10」と映れば、
私も発注担当者も「在庫が10ある」と認識する。
こうした商談をしていると、
私たちは店頭やバックヤードの商品を
端末一つでコントロールしている気になる。
この客観性、俯瞰性は「理性的」な行動を導く。
過去の実売数に比べ現在庫が多ければ、
過剰在庫を処分することになる。
では、その在庫というのが商品でなく人員だったら?
過去の実績に比べ人員が多かったとしたら?
仮想現実上に映し出されたデータは
作業を行うものの感情移入を軽くする。
本著ではその例として湾岸戦争を挙げている。
画面上に現れた標的に合わせボタンを押すパイロット。
実際に攻撃を行うパイロットがどこか傍観者的だ。
「ニンテンドー戦争」と称された戦争だが、
押したボタンによって発射されたミサイルの先では
確実に人間が命を落としている。
実行者が自分の行為に悩まないように
作業対象と相対すると悩みを引き起こす作業は
これからも現場から離れて遠隔的断片的に行われるだろう。
「効率化ってどうなの?」だなんて
もう言ってられないくらいこうした効率化は進んでいて
私も「相手の立場に立つと〜」なんて
言ってられないのかなと思う。
こうした現実を受け入れようとしている私、恐いなぁ。

9月13日

映画「純愛譜」

主人公のウイン(イ・ジョンジェ)と彩(橘実里)が
運命的に出会うまでを描いているのだが、
それぞれが寂しく毎日を送る感じが何とも言えない。
役場が行っている製パン講座の補助助手であるミアに
偏執的な恋をする、公務員のウイン。
日付変更線上で自殺しようと、
その旅費の為にネットポルノで働く彩。
う〜ん。こういうのってわからない、と思うのだが、
ミアの電話を立ち聞きして、
その晩、ミアが行くライヴハウスに行ってみたり、
赤髪のミアの面影を求めて、
ネットポルノで赤髪の女の子を探したり、
(ここでウインと彩がつながる)
ウインのこうした偏執的なミアへの想いって、
私が人を好きになったときに抱く恋心の
延長線上にあるのだろうか。
そう問われると完全にないとは言い切りづらい。
ネットポルノは私たちの社会に確かに存在していて、
私たちも社会に対していろいろなストレスは覚える。
私たちもオタク的な部分や引きこもり的な部分を
持っているのではないか。
こうしたサブカルチャーを描く映画は、
自分が抱えてる癒されない部分を描き、取り出す。
観る者は癒されない部分が
わかってもらえた気になりたいのかもしれない。
自分のオタクっぽさにブルーになっても仕方ないので、
「モノに固執しても、人対人の恋愛は進展しない」と
この映画から前向きなものを考えたい。

9月7日

映画「踊る大捜査線 The Movie2」

「湾岸署署長が不倫!?」
上の文を読んで、オドオドしながら言い訳する
北村総一朗の演技が目に浮かび、
思わず口元が緩んでしまう。
そんな人にはこの映画、思い出の一作となることだろう。
全体的な感想としては、詰め込みすぎ。
迫力あるシーンにハラハラしたり
ちょっとしたギャグにクスクス笑ったり忙しい。
全体的にもう少しシーンごとに間があるといいのだが。
官僚的な警察組織を変えようとする
青島(織田裕二)と室井(柳葉敏郎)の姿が
本作でも描かれていて、
警察組織のキャリアとノンキャリアの問題は
この作品の主要テーマの一つだと思う。
ノンキャリアを見下す、極めてキャリア的なキャリア
沖田(真矢みき)が今回の捜査本部の本部長となり、
官僚的な警察組織の硬直性がまたしても露呈するのだが、
それを描こうとしている割には中途半端。
少しネタバレさせると、
沖田の指揮では事態が進展せず、
日頃現場で動いている青島ら所轄の動きを尊重する
室井が指揮を執り始めて事態が進展する。
所轄に裁量を与える室井のやり方は、
キャリアをトップとするヒエラルキーを守ろうとする
官僚的な警察組織では受け入れがたいものであるはず。
事態を進展させた室井は警視総監賞を受賞するのだが、
それならば、受賞までのストーリーが欲しい。
受賞にはもう少し現場に裁量を与えるべきだという
警察への制作者のメッセージがあるはず。
「室井に授賞させるべきではない」という官僚的な考えと
「室井に授賞させるべきだ」という進歩的な考えとの
ぶつかり合いを、授賞式までに描いて欲しかった。
殺人事件2つと所轄の事件2つと署長の不倫疑惑。
映画の中でたくさんの事件が描かれていて、
話が詰め込みすぎだから、
話の一つ一つが少し消化不良気味。



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