ポピュラー・カルチュアのジャンル融合


「大衆文化論」という科目のレポートで、ポピュラー・カルチュアのジャンル融合について書いてみました。


 ジャンル融合、ここでは広告と美術を融合したアンディ・ウォーホルの作品と、戦後の音楽業界を例に挙げて説明する。

 昔のように、貴族や教会のために絵を描く時代が終わった。絵を描くことを生業としていく場合、絵画を商品として売っていく必要がある。絵画は画商を通して売られるだけではなくなった。リトグラフにして多くの人に安価に売ったり、Tシャツや絵はがき、ポスターなどのグッズに絵画を利用するようになった。今では、絵画は工業品の意匠である。美術展への出展も興行に対するコンテンツの提供という要素を無くしては語れない。

 産業の発達、貴族の不在などによって、芸術が一部の富裕層を対象としたハイ・カルチュアでいられなくなった。貴族が画家一人を養う余裕が無くなった。また、画家も、誰かの制約を受けない創作活動を望むようになった。誰か一人に深く支えられるハイ・カルチュアから、万人に浅く支えられるポピュラー・カルチュアへと芸術が変わり始め、絵画が商品として利用されるようになった。

 商品として絵画にお金を払ってもらうには、一部の富裕層だけでなく、大衆一般に作品を知ってもらう必要がある。絵画も他の工業製品と同じような売られ方がされるようになったのだ。絵画も収益性が高い作品、たくさんの人々に支持されている作品が、優れた作品と考えられる人が多く表れ始めた。

 この傾向は音楽では特に強い。音楽の場合、レコード、CDとして個人に売る傾向が美術以上に強い。「たくさん売れた作品=よい作品」という認識がある。また、作品の売り上げを作る方も買う方も意識し、多くのチャートやランキングが発表されている。ポピュラーの名が示す通り、売れているかどうかが重要である。たくさん売れれば、ランキングやチャートの上位に載る。それを見た消費者がその作品を買う。作品は更に売れる。売り上げを伸ばすために、多くの広告などのコストを必要とするようになった。膨れるコストを回収するため、テレビなどと提携を結んだり、他の資本の介入を招くようになった。資本はそこに収益性を見出すからこそ介入する。作品は収入源として活用される。その際、その作品が文化の文脈で語られることはない。音楽に限らず、作品たちは、商品、自社の事業として転化可能であるか、収益性が高いかどうかが重要視されるようになった。作品が様々な資本に利益をもたらすから、作家は次の作品の製作のコストを負わずに済み、製作に専念できるのである。作家に製作する環境を与えているのは資本である。

 ポピュラー・カルチュアの特性をうまく生かし、作品の様々な事業への転化を成功させた端的な例は、角川書店のメディアミックスである。映画配給会社は、ヒットしている小説を映画化するのでリスクが少なくて済む。角川書店は、映画という巨大な広告媒体を利用することが出来、映画との相乗効果で文庫本の高い売り上げが期待できる。双方が協力するので、広告も1社が行う以上の効果がある。これは、双方にメリットがある。また、映画、小説と、人々への露出を増やしたメディアミックスは、優れた広告でもある。

 ポピュラー・カルチュアが美術を支えている状況下では、美術品も売るための仕組みに乗る必要が出てきた。芸術の場合、作家をブランド化させる戦略がよく採られる。ブランド戦略は、たくさんの作家たちの中との差別化を図る効果的な戦略だ。ウォーホル、横尾忠則などといった作家は、作家自身のメディアへの効果的な登場などによって、人々に対するネームバリューを持っていった。作家のパーソナリティが強い顧客吸引力を持つようになるのだ。作家が作家としてやって行くには、広告塔の役割を果たすことも必要である。ウォーホルは有名人(セレブリティ)になるため、社交界へ積極的に顔を出していた。こうした有名人になるという姿勢は、ポピュラー・カルチュアの世界での彼の成功を間違えなく支えた。彼は、作品を、また自分自身を有名にさせるための仕掛け、知識を持っており、様々な手法を用いたり、演出を行った。これらは、絵画を商品として売っていくのに効果的であった。

 作家がブランド化した状況では、作家がジャンルとなる。ビートたけしにブランドロイヤリティを持つ受け手は、ビートたけしがバラエティから離れて、暴力的な映画を作っても、その作品に興味を持つ。こうした受け手は、ビートたけしというジャンルを構築し、彼のバラエティも映画もここに含めてしまうのである。

 ジャンル融合は3つの点で起こる。1つ目は、先で述べたような作家がジャンルを超えることによってである。2つ目は、作品が商品として売れる方程式を模索した結果、他ジャンルを吸収することによってである。3つ目は商品を情報として受け入れることによってである。

 黒人音楽がゴスペル、ブルーズが登場して間もない頃というのはそれぞれ、教会で歌う賛美歌、仕事が終わって歌う労働歌だった。ジャズはダンスミュージックだった。しかし、これらを職業として歌う、演奏する人が登場することによって、宗教や風習といった民俗的な面から音楽が離れていく。また、気の向いたときに作曲するのではなく、商品として量産する必要が出てきた。そのため、白人音楽の考えであるコードがジャズでも導入される。コードは、作曲する際の枠組みとなり、作曲を効率化させる。このように、売れる方程式として、他ジャンルが導入されていく。モータウンは、白人的なコーラスを積極的に導入していった。70年代、多くのミュージシャンがレゲエを取り入れた。こうした動きは、人々に斬新さを与える目的、売れた作品の前例に乗っかった結果を表した例である。商品を売るのに、ジャンル融合は効果があった。

 ウォーホルは作品の中で広告の手法である繰り返しを利用した。彼は、同じ絵をキャンヴァスの上で並列させた。これはポスターを壁に並べる広告の手法と同じである。同じものを繰り返すことによって、作品を覚えてもらうのである。大量に広告を投下したり、あるものを受け手に繰り返し伝えるというのは、広告の基本的な戦略である。広告の手法を取り入れた後、ウォーホルはコミックの手法を取り入れたのも、人々の目を引くためである。作品を商品と考えているからこそ、彼は人々の目を引く方法を追求した。また、美術品を商品にするには、美術品を量産可能にする必要がある。彼がシルクスクリーンを利用した作品を数多く作った理由の一つは、シルクスクリーンによって製作が効率化し、量産が可能となるからである。

 賛美歌としてのゴスペル、労働歌としてのブルーズ、宗教画としての美術など、民俗の上に作品が乗っかっていれば、ジャンル融合はあまり起こらない。なぜなら、民俗が、作品の根幹をなしているからである。民俗とズレたものは、民俗の中では作品としての意味を持たなくなるのである。しかし、資本の上に作品が乗っかっている場合、売れている作品、収益を稼いでいる作品は、資本社会の中で作品としての意味を持つのである。

 商品を売る上で必要なのは、商品に関する情報である。消費者は、商品がどういうベネフィットを消費者に与えるのか、消費者はその商品を使ってどのようなことが出来るのかということに関心がある。全く同じ商品が、商品名を変えたら、パッケージのキャッチコピーを変えたら売れたという例はたくさんある。商品を使う意味を消費者は求めているのである。芸術を情報の媒体としたのがウォーホルである。ウォーホルの作品は見てそれが何かがすぐわかる。作者の意図を考える必要もない。ウォーホルのキャンベル缶の絵を見て「キャンベル缶である」という情報を人々が受け取る。人々はこのキャンベル缶の絵を部屋に飾りたいかどうかの判断だけ行えばよい。

 音楽の場合、ダンス・ミュージックが端的な例である。ダンス・ミュージックにはダンスのBGMとしての用途しか含まれていない。人々はダンス・ミュージックの音楽を聴いて踊りたいかどうかの判断を行えばよい。音楽を用途で分け、その用途を追求した作品を作ることによって、人々は音楽を消費する際の判断が容易になる。踊りたい人にとって、ダンス・ミュージックは、「ダンス用のBGM」という情報を明示しているからである。これは言ってみれば、市場のセグメンテーションである。マーケティングの基本的な戦略である。ものを効率的に売るための手段として、用途によって市場を細分化させることは何も珍しいことではない。

 その前に、現代文化のジャンル融合を述べながら、用途分けの例を出した。用途分けはジャンル融合に反しているのではないかという反論が考えられるので、それに反論したい。

 こうした用途というのは、音楽が民俗で結びついていた頃の意味とは異なる。民俗と結びついていたダンスミュージックであるお囃子は、日本の祭りの踊りのBGMとしか発展しない。それは、日本の祭りの踊りを踊るための曲だからである。しかし、用途別に分けられたダンス・ミュージックというのは、踊るための曲が集められ再構築されたものである。お囃子、サルサなど、あらゆる曲のダンスのBGMとしての要素を一般化して再構築したものである。これをチャートで表すと次のようになる。

 いくつかの祭事用の曲→ある用途の下、抽象化(ジャンル融合)→再構築(新たなジャンル構築)

 この新たなジャンル構築は、ある音楽たちに共通した情報を見出すことが出来さえすれば可能である。つまり、ジャンル構築は無限に出来る。アート・ロック、サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロックと、その音楽に含まれている情報のどこに注目するかによって、現在のジャンル分けは、人々が音楽に求めているニーズによって変わってしまう流動的なものなのである。

 ダンスのBGMとしての商品価値は、飽きられると下がっていく。そこで新しいダンス・ミュージックが作られていく。ダンスのBGMとしての要素は変わらないが、表面的な曲調のみ変わった音楽が作られていく。必要なのはダンスのBGMとしての要素であり、表面的なジャンル融合は問題ではない。音楽をダンス用、胎教用など、用途別に分けることによって逆にジャンル融合は進むのである。クラブのDJが昭和3040年代の歌謡曲をミックスしてかけることがある。ミックスによってダンスのBGMとしての要素を強め、歌謡曲をダンス・ミュージックとして転用しているのだ。ダンス・ミュージックとして作られた音楽も、そこに違う用途を見出す者が出てくれば、ダンス・ミュージックは他の用途として転用され、ジャンル融合は更に進むだろう。

 このような用途によるジャンルの再構築は音楽だけではない。「ぴあ」は、映画を「思い切り笑えます」、「心から泣けます」と用途で分類している。

 最近目立っているジャンル融合は、「カフェ・ミュージック」の登場である。タイトルに「cafe」と書かれた各種のオムニバス盤を見て欲しい。そこにはソフト・ロック、フレンチ・ポップ、ボサ・ノヴァが1枚のCDに納められている。このCDに必要なのは、カフェのBGMとしての要素、人々がお茶を飲みながら聴いたとき安らげるかどうかであり、歌が何語で歌われているかとか、既存のジャンルは、ここでは問題ではないのだ。




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