僕らにとって岡崎京子とは何だったんだろう?

 現在でも高い人気を誇るマンガ家、岡崎京子。彼女は事故に遭い、現在休筆中にある。その間に、たくさんのマンガ家が台頭してきた。しかし最近、彼女が「switch」で特集されるなど、彼女のマンガを僕たちは現在も決して軽視できないだろう。90年代が終わった今、岡崎京子を振り返ってみたいと思う。

 岡崎京子のマンガには、現実の外で生きるキャラクターが存在している。『リバーズ・エッジ』の吉川こずえなどはその典型例である。ほとんどの読者にはモデルの友人などはいないし、現実世界では関わることの出来ないような人種である。そしてこうした職業を、岡崎はとてもかっこよく描く。大量の食事をたいらげたあと、それをトイレで吐いても、やはりかっこいい。そういう陰の部分を描いても、あまり人間臭く感じさせないのは、あくまでモデルを幻想の中で描いているからではないのだろうか。だから、僕たちはこのマンガを読んでも、モデルの表に出てこない部分の様子はわからない。モデルのようなかっこいい職業がハバを利かせていたバブル期は、人間の欲望をリアルに描く上で、こうした職業はとても効果的だった。今でも多くの人が、お金やブランドへの執着を持っているが、浪費が素晴らしかった時代は終わり、今の十代が憧れる生活と、岡崎が提示するこうしたバブリーな生活との間に乖離が生じているかもしれない。また、以前ほど多くの読者の支持を得られるような、みんなが思ういい暮らしというものも無くなってきているだろう。

 とはいえ、今読んでも岡崎が描く十代の欲望はとてもリアルである。快・不快の原則に基いて行動する主人公たちの欲望は、読んでいてひしひしと伝わってくる。周りにはたくさんの魅力的なモノがあふれていて、僕らはそれらの半分も買うことが出来ない。親の干渉は何かとうるさい。『東京ガールズブラボー』の金田サカエのように反抗したいときもある。だけど、多くの読者はわかっている、自分が何をすべきかを。だから、欲しいモノはあっても自分をごまかし、親や友人とも何とかうまくやっていくしかない。

 理性など無いかのように欲望のままに突っ走る主人公たちは、欲望のままに恋愛している。僕らは岡崎のマンガを読んで、「自分もこうした欲望に沿った恋愛ができたら」と思う。マンガだけでなく小説など他の文芸作品もそうだが、恋愛話を読むことによって僕たちはうまくいかない自分へのストレスを昇華させようとする。なかでも岡崎の作品の中では欲望がリアルに描かれているので、僕らが持つ欲求不満をより解消してくれる。

 いろいろな欲求不満を抱えていた十代を岡崎の作品とともに過ごしてきた人達にとって、欲望の代償として岡崎京子の作品が持つ意味は今でも大きい。




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