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6月21日

演劇「碧い彗星の一夜」(劇団21世紀FOX)

話の舞台がサナトリウムなので、
文学的なのかと思いきや、エネルギッシュなコメディ。
最後はホロリと泣かせるところがまたいい。
舞台でないと伝わらない笑いってあるなあって思った。
大げさな身振り、演劇特有のよく通る発声。
あの真剣さが笑いを誘う。
おバカなテンションがそのまま伝わる力強さがある。
また、舞台の良いところは視野が広く持てるところ。
2人の掛け合いで1人が喋ってるときのもう1人の所作とか、
そういった部分ってショットを切り替えて
場面をつないでいくテレビではカットされがち。
野球で、打者の打球から野手の中継、クロスプレーまで
球場だと一つのシーンとして見ることがあの感覚もそう。
ただ、舞台や球場など生で見る機会って
テレビで見る機会よりぐっと少なくて、
私たちがテレビ的な見方を身に付けてしまってるのも確か。
クロスプレーがあると、球場のオーロラビジョンで
リプレイがあるのも、観客のテレビ的な観戦に
球場側が合わせている一例だろう。
今回の舞台でもテレビ視聴者的な観客に
舞台を見せる工夫を感じた。
舞台の場合、使われる舞台は一つ。
5秒ごとにショットが変わる
アクションもののアメリカ映画に慣れてしまうと
自分の視点が移せないのに飽きてしまう。
そのため、舞台のスポットが当たる位置を
一つの場面で変えることで観客の視線をズラしたり。
すごいなぁと思ったのは、黒子の使い方。
ある小物が次の舞台で消えたりするときに、
黒子がそっと片づけるんだけど、
その時に(多少わざとらしいが)、
登場人物が舞台前面にたくさん現れて、
踊ったり歌ったりする。
観客がそちらに目を向けてる間に、
黒子は出演者に隠れてそっと小物を片づける。
こういったことも重要な演出だと思う。

6月17日

新書「美の構成学」(三井秀樹)

構成学とは、10色相や黄金分割など
配色や配置などの科学的なアプローチを指す。
「科学的」というのは、誰が行っても
美しいバランスが取れるという意味だ。
筆者はデザインと美術の違いとしてこれを挙げている。
そして、科学的であるから、
デザインは大量生産を支えていく。
私がこの本を読んで、
バウハウスの大きな功績だと感じたのは、
手作りの美しい工芸品か
粗悪の工業製品のどちらかばかりだった19世紀に
工作機能を考え、大量生産を前提とした上で
美を追究した点だと感じた。
工業の発達が、バウハウスの独特の美を
さらに発展させたように、
新しい技術は、美に対する新しい取り組みを生む。
ヴァーチャル・リアリティなど、
美の感覚への働きかけが視覚だけに留まらず、
情報技術にまで広がっているという筆者の指摘は、
現在のカルチュラル・スタディーズの隆盛に
つながるのではと思った。
配色のコツや、黄金比など具体的な分割方法にも
触れられているので、デザインに興味がある人は
読んでみる価値があると思う。

6月8日

イベント「ニューウェーブ短歌コミュニケーション2003」

「ぼくたちのいる場所、その作品」と銘打たれた
シンポジウムに昨日参加してきた。
内容は穂村弘さんと枡野浩一さんの対談と、
五十嵐きよみさん、井口一夫さん、大松達知さん、
千葉聡さん、天道なおさんによるディスカッション。
対談の司会は荻原裕幸さん、
ディスカッションの司会は加藤治郎さん。
最初に対談の感想。
短歌を始めた出発点がお互い違う二人が、
それぞれに短歌の今後を心配している。
結社、短歌専門書の版元、短歌総合誌の
トライアングル(歌壇)にあてはまらない
ネットや朗読などのパフォーマンスなどが
この5・6年で無視できない存在になっている認識は
両者に共通している。
ただ、歌人としての関心のベクトルが異なり、
自分の作品を読む読者に対する
スタンスの違いがこの対談で明確になっていく。
歌集を商業ベースに乗せるという努力を
他のメディアに比べ怠ってきた歌壇に対し
作品が売れるための努力、
多くの人に読まれるための努力を枡野さんは考え、
57577の定型を守り口語で詠みわかりやすさを重んじる。
読者が作品を詠む際の負担を減らそうと考える。
これまでも数多くの結社で行われてきた
新しい文体の創出などに強い関心がある穂村さんは
新作を発表するたび
自分の文体の新奇性に読者に気付いてほしい。
どちらのスタンスが今後の短歌界にとって
より有益であるかというのは、
はっきりとした答えなどないと思う。
ディスカッションでは、結社やネットなど
それぞれの場で短歌に関わっている若手歌人が
自分の関わっている状況と、
短歌界に対する自分の認識を報告し、
治郎さんが適宜質問していた。
多くの人に知識として共有されるように
短歌をコンテンツとして配信している天道さんと
短歌をある種の芸事のように捉え
結社の中で自分を磨くことに
視点が向いている大松さんが対称的だったのや
五十嵐さんのネット短歌の認識が印象的だった。
五十嵐さんの認識をまとめると次の通り。
長所は意見内容が保存できること、
地理的、時間的制約がないので
多様な参加者が参加できること。
短所は指導者がいなく、参加者が流動的なので
知識が蓄積されないこと。
さて、この対談やディスカッションやを聞いて、
私自身が今後の短歌界に対して
どう関わっていきたいと思ったかを書いて
この文章をまとめたいと思う。
短歌という自己表現のメディアが
私たちより若い世代にも続いてほしいと思う。
若い才能に魅力的に映るための努力
(短歌を表現形式として選ばせる努力)が
短歌界には必要だと思う。
そのために、口語や現代的仮名遣いといった
わかりやすさは必要だと思う。
なので私はこれからも口語で詠んでいきたい。
統一化したコンセプトなど
多くの読者に共感してもらうための
枡野さんの努力はとてもポップだと思う。
私も同様にポップさを目指せばそれは枡野さんの二番煎じで
私が短歌を詠む意味が他の人に伝わりづらいと思う。
なので私は自己表現の手段として短歌を捉え
私でないと詠めない気持ちや文体を
31文字に表していきたいと思う。
「私でないと詠めないもの」は
先人たちの作品を読まないとわからないので
これからも先人たちの作品に興味を持っていたい。
(文語、歴史的仮名遣いは苦手なんだけど)
これが、私が短歌を詠むときのスタンス。
私自身、短歌の才能がそれほどあるとは思っていない。
そして私の関心はもう一つある。
それは若い世代に短歌の面白さを伝えるということ。
自らわかりやすく面白い短歌を実践するのも一つだが、
それと共に面白い短歌をもっと伝えたい。
以前100の質問を作った動機は、
短歌を作る面白さが伝わればという思いにある。
今、短歌は小さなブームが起きていて
若い世代の関心も高まっていると思う。
より多くの人に枡野さんが知られ
また枡野さんで関心が止まっている子たちに
より詩的な(ややわかりにくい)穂村さんの面白さに
気付いてもらうための何かが出来ればと思う。

6月3日

新書「コミュニケーション論」(後藤将之)

なぜ、コミュニケーションが生まれるか。
私と他の人は完全に同じではないからだと
私はこの本を読んでそう思った。
友達と映画を見に行って、
見終わった後にお互い感想を言い合うのは楽しい。
それが楽しいのは、お互い感じるものが違うから。
その違いは結局は環境の違い。
親との接し方だったり読んできた本だったり。
私たちは周りからいろんな影響を受けやすくて、
また、相手も自分の態度に影響を受けるから
私たちは自分が思っていることを周りに話したがる。
私たちって一人では生きていくことが出来ないのだ。
コミュニケーションってそれによって相手が変わること、
自分が伝えたいことが伝わることばかりに目が行きがちだけど
コミュニケーションによって、自分自身も変わっていくのだ。
そしてこのことに気付くと、
自分が見ようとしてこなかったものの存在が現れてくる気がする。

6月2日

映画「少女の髪どめ」

働き先の建設現場に性別を隠して勤めに来た
アフガニスタン人少女にイラン人少年が好意を寄せていく話。
私はフェミニズムについてほとんど学んでいないので
正確なことは書けないが、
、 建設現場に来たラーマトが実は女性であると
イラン人少年ラティフが知る前と知った後の描き分けに
イラン社会での女性の扱われ方を感じた。
知った後では現場に集まる鳥にパンを与えるシーンが出てきたり
給湯室に花を生けるシーンが出てきたり。
「こういった姿=女性らしさ」みたいなのは日本にもある。
ラティフがラーマトを女性として扱えば
ラーマトは本名であるバランとして
(女性として)しか振る舞えなくなる。
(これって身近な社会化だと思う)
ラティフとバランの性差がお互いに
それ相応の振る舞いをさせ距離が保たれるようになる。
映画のラストでのバランの女性らしい振る舞いに
バランもラティフのことが好きだったんだなぁと強く感じた。
個人的には、ラティフがラーマトが女性だと知る前、
自分の仕事を取られてラーマトに
いろんな嫌がらせをするシーンがリアルで好き。
彼らにとってお金は私たちにとってよりもずっとシビアで
自分の仕事を守るために私たちなんかよりずっと真剣。
シビアな描写に甘えがない。
主人公も徹底的に辛い目に遭い
ご都合主義に解決しないところが
日本のテレビドラマとは違うと思う。



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