1月30日

映画「薔薇の葬列」

オイディプス神話を描いたパゾリーニの
「アポロンの地獄」をなぞったものだが、
「アポロンの地獄」を観ていないので、
そういった解説は割愛。
オイディプス神話だけあって、スプラッタな描写あり。
私はちょっと苦手だった。
16歳の若くてかわいいピーターを楽しむとか、
この頃のファッションへの興味を満たすとか、
そういった楽しみ方もできると思う。
メイクをすると、男の子から女へと変わる
ピーターを見ながら、女って医学的なものだけど、
われわれの普段目にしている表層的な女というのは、
ある種の記号なのかもと思いながら観ていた。
主人公のエディが内包しているコンプレックスを
断片的に表していって、それをだんだんつないでいってるので
こういう展開に慣れてないと、観ていて訳が分からないかも。

1月29日

映画「僕は天使ぢゃないよ」

あがた森魚の初監督作品。主演もしている。
桃井かおりが若くてかわいいとか、
横尾忠則のメイクが変とか、ツッコミどころがいくつかある(笑)。
時が移ろう感じが出てる。
同じような毎日なんだけど、
今日は昨日と違っていて、周りは変わっている感じ。
まるっきり何もしない日ってほとんどないわけで、
何かしら事態は進んでるんだよなぁ。
仕事をしていれば、その期間プライベートは疎かになるし、
何かをしてるときって別の何かが疎かになりがち。
ある事態の好転って、別の何かを 切り捨てることだったりするんだよね。

1月28日

映画「暖流」

日疋(佐分利信)は、世話になった院長(藤野秀夫)に頼まれ、
志摩病院の経営を立て直しを行う。
医師同士の対立、経営の才覚のない院長の長男
泰彦(斎藤達雄)の副院長ぶりなど、志摩病院は問題を抱えていた。
日疋は経営の建て直しを効率よく行うため、
誰が日疋に協力的であるのかなどを知るために
看護婦の石渡(水戸光子)に腹心の役を命じる。
病院だけでなく、志摩家の財産の管理も任されている日疋は
院長の娘啓子(高峰美枝子)と頻繁に接触する。
石渡は日疋に、日疋は啓子に知らず知らずのうちに好意を抱いていく。
そんな中、上昇志向のある外科医笹島(徳大寺伸)は啓子を狙っている。
あらすじはこんな感じ。
同じ小学校で学んだ啓子と石渡がその後の境遇で
対称的な人生を歩んでいっている。
白いワンピースを着た啓子と落ち着いた着物を着た石渡の
喫茶店のシーンなど、2人を対称的に描いている。
啓子、日疋、石渡の3人を比較すると
啓子の住む世界だけ違うのがよくわかる。
いろいろな思いが交差していて、男女がくっ付くかどうかって
タイミングに因るところが大きいなぁとこの映画を観て思った。
男はパッと恋のが炎が燃え、女はジワジワと火が付く様子が出てて、
男女のお互いの波長や体温が違うから、
自分を好きになってもらうため、振り向いてもらうための努力が必要なわけで。
好きというタイミングが合うことによって合わないことによって
悲喜こもごものドラマが生まれる様子がよく描かれている。
水戸光子を胸から上ではなく、顔のアップで撮ったり、
なるほど昭和14年当時としては、かなり斬新な撮り方をしている。
この頃の映画って、クレジットが先頭に来て、
エンドロールがないから、ラストがすぱっと終わって気持ちいい。
海辺のラストが焼き付いたまま終わるこの感じ、いいなぁ。
今、ビデオで出回っているのは124分のニューマスター版で、
前後編計180分のオリジナル版を編集したもの。
急な展開など、カットした違和感があるのが残念。
この映画は戦後、増村保造と野村芳太郎がリメイクしている。

1月27日

映画「メキシカン」

チンピラのジェリー(ブラッド・ピット)は
組織に命じられ、メキシコのある町に伝わる拳銃を探す。
その拳銃の横取りを企んだ男が、
ジェリーの妻サマンサ(ジュリア・ロバーツ)を捕らえる。
サマンサと男、ジェリーはそれぞれメキシコへ飛び、
メキシコでこの3人が出会い、現地のメキシコの組織との
ぶつかり合いも生じて…。
あらすじはこんな感じ。
ジュリア・ロバーツってたくさんの映画に出てて、
ちょっと食傷気味にならなくもないけど、
この人のキャラクターは結構好き。
感情的になったシーンでのこの人って、
この人ならではの個性があるし。
(相変わらず足が細いのとかも素敵だよね)

1月26日

映画「ヤンヤン夏の思い出」

例えば友達。私が22年生きた中で生まれては消えていっている。
ある人と疎遠になる一方、他の人と新たに出会う。
そしてその存在の大きさに、失ったときに初めて気付く。
そして失ったものが二度と戻ってこない。
消えた状態が現状となり、その維持をしようという力が働くから。
失ったものの数だけ得るものがあるとも限らない。
何かを失い、傷つきっぱなしのことだってある。
自分の世界を狭く閉じこめてしまいたくなることもある。
「あのときあの関係が続いていたら」とか
「あのときあの人と一緒にやっていけば」と想像することはできる。
でも、それを体験することは出来ない。
人生は一回きり。今体験している生活こそ、その人の人生。
人生は一回きりだからって、行動的に生きる必要もまたない。
その人がその人らしくいられるペースってあるし。
自分の全ての環境をコントロールできるわけでもないし、
行き当たりばっかりに生きてその中で何かを見つけるという
生き方もアリだと思う。
過去から学ぶことはできるが、過去のやり方がいつも通じるわけでもない。
この映画を観てこんなことを思った。
体験する出会いによって、人生は変わるだろう。
でも、最終的に到達する地点って、
どんなやり方を選んでもさほど変わらないのかなぁ。
日々送る人生を充実させるために努力や方向付けは必要だけど、
人生全体を見渡すと、なるようにしかならないもの、
変えることが難しい環境ってあるなあ。

1月25日

マンガ「花咲ける青少年」(樹なつみ)

10巻あたりの絵のタッチがたまらなく好き。
連載が開いたせいかなぁ。
最終巻である12巻あたりのタッチは私の好みから離れている。
最近読んだ少女マンガの中で、
特に少女マンガらしいタッチの中では、
この人の絵がいちばん好きかも。
ストーリーはなんとなく不満があるのだが、
これよりベターな案が今ひとつ思いつかない。
最後のラストがちょっと恋愛色が強すぎるとか、
政治ネタの絡めかたに物足りなさを感じるとか、
(最近「BANANA FISH」を読んだせいもある)
クインザ登場前と登場後で作品の雰囲気が変わるのが
少し気になるとか。
クインザの描き方には作家の苦心が伝わってくる。
彼の立場を考えると、あれ以上悪役然と
描くわけにはいかなかったんだろうなぁ。
で、ストーリーの説明はと言うと、
う〜ん、どこまでネタバレさせようか。
大雑把に言うと、避けられない運命を背負った
貴族の子、財閥の若き当主、王子などが
財閥の令嬢でありながら自由にふるまう花鹿に
触発されてそれぞれ自分の居場所を探す話。
王子ルマティの成長を中心に描いたら
もっと私好みだったかも知らないなぁ。
カリスマ性のあるルマティと
対称的に自分に自信がない兄であるソマンドの対比。
これが面白かった。
ソマンドとしては、自分がいちばん国王に近くても、
ルマティにあれだけの華があれば、
自分の地位に不安を感じるってものだ。
この対比に自分のもう一つの運命を捨てて、
仕事人となったハリーを絡めたりすると
私好みなんだけどなぁ。

1月24日

マンガ「CLEAR」(耕野裕子)

男の子が成長していくマンガ。
少女マンガでひどい男の子と言えば、軽薄な男の子
というのがお決まりだが、仙太のひどさは違う。
人の気持ちに甘えていたり、相手への配慮が欠けていたり、
視野が狭く、相手への思いやりが足りない感じ。
「スロー・ダウンー怯える仔羊の為のAー」という作品を
これ以前に耕野裕子は描いているが、
それよりもキャラクターの設定などが洗練されてて読みやすい。
この作品と通じるものがあるが。
このマンガを読みながらふと
「私自身は大学入学後成長したんだろうか」なんて考えてしまった。
成長って恋人を作るために成長するわけではないから、
このマンガを読んで「よし、俺も成長して仙太みたく
彼女作るぞー」とは思わないが、
私が大学時代に得たものって少ないことは認めざるを得ない。
恋人がいなくても「俺にはこれがある」と
胸を張って言えるものがあれば別に問題ないのだ。
10代後半、20代前半って恋愛に過剰に価値を見出しがちだけど。
ほとんどのカップルの場合、2人で会ってる時間より、
学校で授業受けたり、会社で仕事してる時間の方が長いわけで、
この時間の充実度って、一日の充実度の中でとても大きいはず。

1月23日

映画「ビョークの『ネズの木』」

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の前にビョークが主演を演じている映画。
この映画、何人のファンが付いていけるか。
モノクロだし、グリム童話が原作で全然テンション上がらないし。
ラスト近くになってようやく面白くなってくるけど。
「橋の上の娘」がダメだった人は、もっとダメだろうなぁ。
静かな映画でも、パゾリーニの「アッカトーネ」のように
登場人物が多ければもう少し見やすいんだけどなぁ。
いろいろ考えさせられる所はある。
後妻が前妻の子と馴染めていない話で、
血のつながりってやっぱり強いなあと思うし。
ましてその後妻が他の地方から来た人であればなおさら。
男とその子供と、後妻とその妹との間に境界を意識せずにはいられない。
ビョークにはビョークの母が見えて子供には彼女が見えないとか。
ちなみにこの後妻の妹をビョークは演じている。
ネタバレさせないように語るので、上手く説明できないが、
ラストあのような結果になって、
ビョークは幸せに暮らしていくと思うのだが、
あれ以降、母親は見えなくなるのだろうか。少し気になった。

1月22日

映画「下落合焼とりムービー」

渋谷のTSUTAYAには、このビデオが3本も置いてある。
ちなみに場所は「邦画 コメディー」の棚の一番上。
この映画を見てみたいなぁという理由は人それぞれだと思うが、
みんな満足できるのではないだろうか。
フィルムで撮って当てレコしているのか、
映像と口がなんか不自然な感じもするが、
この映画には効果的な演出とかリアリティとか
求めていないので良しとする。
逆に言うと、キャラクター目当てで見るものであって、
この映画にそれ以上のものを期待してはいけない(笑)。
設定は、学園ものだが、見ている内にどーでもよくなる。
たこ八郎の存在感はやはりすごいし、
(彼がスクリーンに映ると視線を奪われる)
江本明は今の役者然とした彼ではなく、
東京乾電池の江本明だし、
楽器弾いてるモト冬樹の髪の毛がこの頃はまだあるし、
タモリはマイクをパクリと加えたり、花を食べたりするし。
意外と、所ジョージのファンは不満かも。
主演なんだけど、(ストーリーから脱線できない主演だからこそ?)
ポワンとしたいい加減な感じが出し切れていない感じ。
シャワールームでケツ丸出しで、坂崎幸之助と
キスしてるシーンはとても貴重だが。
たこ八郎みたいな存在感のある人っていまいないよなぁ。
ヘルメットでなぐられても、顔色を変えずにたこ八郎でいられる
彼はすごいと思う。

1月21日

マンガ「I・S」(耕野裕子)

このマンガでは「あのときあなたのことが好きだった」という
思いが描き続かれている。
誰と付き合うかって、タイミングによる部分が多いなぁと思う。
嫌いじゃないからくらいの軽い気持ちで
つきあい始めることも出来るんだけど、
そこからさらに感情が高ぶっていかないと
2人の関係は続いていかないし、
思いを強く募らせる誰か第三者が表れると、
2人の関係は簡単に破綻してしまうし。
他の誰が登場しても恋人への思いは揺らがなくて、
また、恋人に絶対的な愛を提供できるようなカップルって
結局少ないんだよなぁ。

1月19日

マンガ「GO NEXT!」(耕野裕子)

自分が気になる人って、他の人にも気になる存在であることが多い。
既に特定の相手がいることの方が、現実では多い。
転校先にすごくかっこいい男の子がいて、
その人はフリーで、主人公が猛烈にアタックを繰り返した末、
主人公と男の子が結ばれる、といったことは
現実にはほとんど存在していない。
誰かを好きになることは、その人を違う誰かから奪うこと。
奪う相手に遠慮する余裕があるとすれば、
その思いはそれだけということなのかも知れない。
奪うという行為は、相手を自分に振り向かせなければならない。
自分の独占欲の赴くままの行動では、
目的を達することは出来ない。
他者の立場に考えること。
つまり、自分が与えるサービスが
相手が求めているものと一致しているということ。
自己を犠牲にすることは自分一人でも出来るが、
思いを伝えないと、コミュニケーションとしては発展しない。
このマンガを読みながらこんなことを考えた。
2人のタイプが異なる女の子がいろんな男の子と付き合って
恋愛について知っていくといった内容。

1月18日

マンガ「BANANA FISH」(吉田秋生)

史上最大の兄弟ゲンカ「北斗の拳」とか
ああいった少年マンガが得意とする冒険活劇かと
先入観を持っていたが違った。
「カリフォルニア物語」の作者だけあって心理描写が巧み。
ただの冒険活劇にさせていない要素として、
普通の少年、英二の存在もまた大きい。
彼はとても強い人間へと成長していくのを読むのも楽しい。
バイオレンスものという先入観を持たずに、
青春ものを読む感じで読むといいと思う。
人物関係の描き方とかもそうだし。
話の展開もNYのチーマー(平たく言えば)の主人公、アッシュと
NYを取り仕切るパパ・ディノとの戦いから、
アッシュがやりたいことをやろうとしていくという
自己実現の物語へと昇華していく。
厳密に言えば、アッシュはパパ・ディノを倒すためではなく、
パパ・ディノから自由になるため戦っていたのであり、
最初から自己実現が頭にあった。
パパ・ディノは、幻覚剤「BANANA FISH」を手中に収めるため、
アッシュを支配しようと戦っていたが。
自己実現というと、力石の減量のように
自分だけの目標を設定し、孤独に追い込みがちだが、
ここでも英二の存在感がそうさせない。
逆に言うと、劇画のような
迫力有る画で鳥肌が立つくらいに読者を引き込む
ようなところがなくて、ちょっとアッサリ。
表の顔だけでは社会は成り立っていないことの描写。
ジャーナリズム志望の人にもいいかな。
社会を多角的に見るために。
社会が光と闇で構成されていることを私たちは忘れがちだから。
ただ、中南米の共産化を恐れるアメリカなどに、時代を感じるが。
「友情・勝利・努力」のような少年誌と異なる内省的な場面が味わえる。
男性にも読みやすいはず。
フォーマルな場での優雅な振る舞いを身に付けていたり、
ただのチンピラではないアッシュのキャラクターの
魅力もこの話に欠かすことが出来ないのはもちろんだ。
コミックス8巻p21では
「オレの名まえが 殺戮の合言葉になっていく
オレは いったい何者だ?」と、アッシュは自我を掘り下げる。
12巻p182でアッシュは英二と出会ったことについて、
「この世に少なくともただ1人だけは… なんの見返りもなく
オレを気にかけてくれる人間がいる」と口にする。
18巻p14でブランカは人と敵対することしか知らないユーシスに対し
「愛さなければ 愛してもらうこともできません
アッシュは… あいつは少なくとも 愛することを知っています」と語る。
このような、自分の在り方について考えさせる場面が 少年誌は少ないと思う。
内省的な場面の描き方がこの人はほんとに上手い。
ちなみにこのマンガを2回に分けて読む場合、
死亡のニュースを伝えるところで終わる9巻で
区切るといいと思う。

1月17日

イベント「ニューヨーク近代美術館名作展」

ポップ・アートを勝手に期待して行ってたので、
マティス、ピカソ中心でちょっと物足りなかった。
「座る水浴の女」など、代表作が展示されてるし
この2人が好きな人は行く価値ありだろう。
ダリの「記憶の固執」が思ったより小さいとか、
絵画の質感は、実物をライヴで見ないと感じられないから
行って損した、とは思っていないけど。
モディリアニの「アンナ・ズボロウスカ」は
以前からその作品は知っていたが、
この目で実物を見て陰影の付け方は
思っていた以上にすばらしかった。
カタログからの情報ではわからなかった。
「記憶の固執」など、ダリの作品の
油彩独特の質感が出過ぎる感じが鼻に付いた。
これはアクリルののっぺりしたのが私が好きだからだが、
こういう感覚って、美術館に行かないと味わえない。
この展覧会に来てるのは、1930年代くらいまでのものばかり。
アクリル絵画は戦後出てきたものだから、油彩がほとんど。
館内の混雑は覚悟していったほうがいい。
雨の日の平日の昼なのに、混雑。
人の列が流れていただけ、あれはいい方なのだろう。
立ち止まって品物を手に取ることが出来ないほど
混雑したミュージアムショップの店内で
マイペースに流れるユーミンのバラード集に
ユーミンが好きな私が、気が立ってしまった。
あのCDとああいう出会い方はしたくない。

1月14日

マンガ「ヨコハマ物語」(大和和紀)

愛って自己犠牲だと思うと、私は常々言っている。
そして、この話にはたくさんの愛が詰まっている。
お卯野、万里子、森太郎、竜助などの登場人物がみんな献身的。
この様子に私は愛を感じ、途中鳥肌すら覚えた。
「○○がいたから私は頑張れた」とか、
自分の仕事を○○に捧げたい」と思えるような存在っていいなぁ。
自己犠牲って、捧げる相手がいないと絶対成り立たないものだからね。
話の内容は、明治になり、新しい時代に夢を持った2人の女性、
お卯野、万里子が夢を抱えていくのが中心。
そこに、森太郎、竜助といった男性とのロマンスがからむ。
ロマンスは、それぞれの環境などからすれ違い、
なかなかうまくは事が進まない。
お卯野、万里子は少女から、社会人へと成長していく。
その成長は、前向きでいようと、読んでいて刺激になる。
万里子なんて、実家の貿易会社を継いでしまう。
それまでの女性観にとらわれずに生き生きと成長していく。
「あしたのジョー」を始め、私は成長ものが好きなのだが、
やっぱりいいなぁ。

1月13日

マンガ「千花ちゃんちはふつう」(くらもちふさこ)

血がつながっていない兄妹の話というと、
「東京のカサノバ」もあるが、
あのような甘いきれいな話ではない。
先走りしている妹とクールな兄の関係が読んでいて楽しい。
千花の母親がホステスをやってた頃の客、横須賀とか、
カイにとってのカイの母親の病気とか、
嫌な人、嫌なものがリアルに描かれてる。
嫌なものを描くと、リアルってわりと簡単に表せる。
(作家としての逃げとしても使える)
エピソードをつなげたり、
嫌なものを深く掘り下げた作品が私は好き。
この作品はちょっと尻切れトンボ。
千花がカイの母親の病気と対峙するシーンがもう少し欲しかった。

1月10日

映画「初恋の来た道」

大学を出て都会で働くルオ・ユーシャンが、
昔聞いた両親の若い頃の話を思い出すという話。
主人公のチャオ・ディ(ルオの母)が器を割ってしまうシーンとか、
何度かウルっときた。
「泣けるぞ〜」と薦められ、ひねくれながら見てたのに。
お互いに思っているのにすれ違ってばかりの2人が見ていて切ない。
チャオを演じるチャン=ツィイーは、ルオ・チャンユー(ルオの父)に
近づくときとか、本当に嬉しそうな表情をしている。
チャン=ツィイーは、ルオを演じるチョン・ハオのことを
本当に好きになったりしないんだろうか、と思うくらい。
カメラワークが面白かった。
カメラの位置が左右にずれていたり。
カメラの視点の方向が一定でなかったり。
右から左へと動く人をロングで撮って、
アップに切り替えるときは、その人は左向きであるのが、
カメラの視点で言えば、自然である。
ロングでの顔の向きと、アップになったときの顔の向きが
一致していると言うこと。
レンタル屋でこの映画のパッケージのチャン=ツィイーに
萌えた人は、見るべき。本編でも、すっごくかわいい。
最後に気になったことを一つ。
エンドロールで、キャスティングの名前よりも先に、
プロデューサーとか制作側の人間の名前が出たのが、
中国っぽかった。
普通の映画って、主演俳優の名前が先に出るから。

1月9日

マンガ「河よりも長くゆるやかに」(吉田秋生)

この話の舞台は男子校。
季邦(としくに)、深雪(みゆき)、秋男の三人のバカさ加減が、
男子校出身者にとっては懐かしい。
私は内部進学マジメグループという、
とても視野の狭いグループにいたので
おちゃらけた奴らの様子はそれほど詳しくないが、
男子校の思い出をいくつか。
ここでも深雪の女装で周りが盛り上がるが、
私の母校でも女装は盛り上がった。
他の男子校でもその話を聞くが、私の学祭ではミスコンがあった。
男の女装を競うミスコンである。
たいていはクラスの人気者が担ぎ出される。
時々、「こいつは女装が似合いそうだ」と
線の細い奴が担ぎ出されるが、
そうなると、出場が決まった瞬間から学祭当日まで
そいつは人気者である。
私の卒業アルバムにも生徒の女装写真が一つ載せられている。
電車で遭った痴女の話で盛り上がったり、女性には飢えていたが、
私の周りでは、男色の話題は経たなかった。
両親が離婚し、姉と2人暮らしし、
大人の世界に背伸びして踏み込んでる季邦の様子とか、
そういう家庭環境にない私にもある種のリアルさを感じさせて、
大人の世界と対峙する少年たちの様子を楽しむのもとても楽しいが、
私にとっては、このマンガはバカな奴らに囲まれた
男子校時代を思い出させるノスタルジックなものなのだ。
クラスに必ず一人はいるよなぁ、脱ぎたがる奴って。

1月3日

テレビ「白い犬とワルツを」

01年10月30日に取り上げた小説をテレビドラマ化したもの。
今度日本で映画が製作されるらしい。
同窓会の会場まで行って、参加をしないシーンとか、
主人公のサムがシーンとかの描写があっさりしている。
これらのシーンに思い入れのある人は不満かも。
日記を書くシーンや、同窓会の閉会後に
マーサとサムが出会うシーンなど、
割愛されているエピソードも多いし。
逆に言うと、テンポがいい。
原作を読み始めたけど読了できなかった人も、
これなら楽しめると思う。
原作のみずみずしい文体そのまま、ではないけれど、
やはりラストは感動するし。
このドラマ、日本コロムビアからDVDも出ている。

1月1日

『ごあいさつ』(高田渡)

高田渡の誕生日にちなんだセレクション。
「自転車にのって」、「値上げ」など、
彼の代表曲が収録されているアルバム。
山之口貘など、詩人の詞に曲を付けた作品が多く、
「自衛隊に入ろう」のようなユーモアのある曲は少ないが、
(「銭がなけりゃ」、「値上げ」はクスリとさせられる)
彼のとぼけた感じが堪能できる。
鈴木茂のギンギンなギターとも、妙にマッチしてる。
音楽的には、ブルースやフォーク、アメリカ民謡の要素が
強く感じられるものが多い。
ゆったりする曲やのんびりする曲が多い。
ただ、15曲目の「しらみの旅」はロック調。
はっぴいえんどのバックが目当てで聴くならこの曲。
打ち込みの曲やヒップホップのような
聞き手を煽るような曲は全くなし。
つじあやのとか、のんびりとした曲が好きな人にオススメなアルバム。
ボーナストラック「自転車にのって<ファンキー・ヴァージョン>」の
矢野顕子のコーラスもよい。



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