2月23日

イベント「メトロポリタン美術館展」

<ピカソとエコール・ド・パリ>という副題がついている。
色鮮やかで輪郭がデフォルメされた、
いわゆるピカソのイメージの前のピカソの作品、
フォービズムなどその頃の同時代の作家の作品など
これらを通して、ピカソが「ピカソ的」な
作風にたどり着くまでの流れがわかる。
これを見たあと彫刻の森美術館に行けば
新たな発見もあると思う。
20世紀初頭から1930年代まで
基本的には年代順に構成されている。
同年代の作家の作品を通して
個展では得られないものを得ることができた。
キュビズム初期のブラックとピカソは似ているし、
それらを見たあとにラ・フレネーの「砲兵隊」を見ると
茶色を中心とした作品の暗さは
第1次世界大戦が迫り来る世相を
反映してるのではないだろうかと
その作品が生まれた環境を
いろいろ想像することができる。
その後に登場する色鮮やかなマティスの作品に
ピカソの作品の色彩が明るくなっていくのと
相関関係も感じる。
個人的なお薦めは「盲人の食事」と
ブラックの「テーブルの上の蝋燭とトランプ」。
ピカソの青の時代の代表作の一つである
「盲人の食事」は日本初公開。
ブラックは日本ではいま一つ
知名度が低いように思えるので
ブラックのファンとして、
この展覧会を通じて少しでも
ブラックの名が知られればと思う。
(私が見に行った今日、会場は人でいっぱいだった)
この頃のブラックやピカソの作品は
茶色中心の色彩で見ていて落ち着く。
特にブラックの方が少し色彩が淡く
静かな印象を受ける。
地下の喫茶店を照らすランプのような
茶色くて柔らかい感じ。
日本であまり個展が開催されない
1920年代、30年代の作家の作品が
見ることができ、ピカソファン以外にもお薦め。

2月22日

イベント「2・22椿の水ライブ 樹海―辰巳泰子の世界」

全体の構成は以下の通り。6つの朗読で構成されている。
月岡道晴さんの朗読 連作「かた恋」
「平家物語」とそれにちなんだ新作短歌の朗読
書き下ろし連作50首の朗読
「誰かわたしをかはいさうだと云つてそばへ来て髪を撫でて」
キクチアヤコさんの朗読
既刊歌集より構成された「宵待草」の朗読
小説「椿の水」の朗読
順番に思ったこと、朗読の特徴などを書いていきます。
月岡さんの短歌は現代短歌。
言葉が意味から解放されている。
使われている単語の意味が重い。
情報量も多いし(かといって冗舌ではない)
こういう短歌がきちんと詠める人が
歌人と評されるのだろうなぁ。
私は全然出来てなくて、
何のために短歌を詠んでいるのだろうと
家への帰り道考えてしまった。
(新しいリズムを生み出したいのだと
自分なりに結論を出してみた
同じ5音でも「しちゃってる」と「作動する」は
リズムが違う、みたいな)
「平家物語」は次の3つの場面
「祇王」「敦盛の最期」「扇の的」
各場面朗読のあと短歌が朗読される。
「平家物語」の朗読は演出としては面白かった。
「平家物語」の一節をある程度の長さ触れることって
学校で習わなくなるとなくなってしまうし。
馴染みがなくて聴いてて少し辛かったけど。
話の流れが頭に入っていかない
私の古文の不勉強さを実感。
「誰かわたしを〜」は、ネット掲示板に対し
辰巳さんが思うところを短歌にしたもの。
少しエッセイ的な内容。
辰巳さんがネットをどう思ってるか伝わってきた。
少しネガティヴな様子が伝わってきた。
うまく言えないけど、
ネットは物事の見方を刹那的にさせるみたいな。
キクチアヤコさんの作品からは
90年代の都市を感じた。
私が体験してきたものと 割と近いものが詠まれている。
私たちの世代が詠んでいくもの、
私たちの世代でなければ詠めないもの。
それは盛衰が目まぐるしい世の中での
処世術かも知れない。
今ある幸せが長く続かないことを
私たちは知っている。みたいな
そんな一種開き直る強さを
彼女の作品から感じた。
「宵待草」がやっぱり
一番辰巳さんらしくて聴きやすかった。
見たものの客観的な美しさと
主観的な感情が一つになっている作品とか。
「椿の水」は50枚の短編を
30分で朗読できるように再構成したもの。
さきこ、みすずの小さな姉妹の話で、
さきこの死などを経験し
みすずの自我が成長していく様子が
活字を追わず耳で聴いてるだけでも伝わってきた。
全体的な感想は、
この体験を作家に生かそうとすると、
やはり早く自分の型を作らないとと思った。
辰巳さん、月岡さん、キクチさんは
それぞれ違っていて、
(避けることが出来ない、世代が生む差も感じた)
みんな「誰でもない自分」を持っている。
背伸びせず(年相応に)、自分が詠みたいものを詠み
そうして詠んだものが人に伝わるようになりたい。

2月16日

マンガ「LOVE MY LIFE」(やまじえびね)

主人公はレズビアン。
自分の恋愛について語れない
恋愛に対してマイノリティであることって
マジョリティであるストレートは
考えもしないような恋愛観を
形成するんだろうなと思った。
在日は国籍や民族のことを考えるだろうし、
マイノリティというのは、
自分をマイノリティにさせてるものについて
考えるのは避けられないのだろう。
私は他人に言えない恋愛とかしたことないし、
恋愛で悩むことは「どうやったらうまくいくか」ということ。
恋で悩むときに出てくるのは自分と相手だけ。
ゲイの男友達をお互いのため
「偽装彼氏」にする気持ちなんて
想像することはできても理解できないもんなあ。
もちろん、レズも恋愛であることには変わりなく
恋人が試験勉強を始めて会えないとか
レズ/ストレートに左右されない
普遍的な悩みもたくさん出てくる。
そういった悩みが少し物足りない。
これから主人公たちが
盛り上がっていきそうなところで
この話は終わっている。
尻切れトンボな感じ。
(途中で終了せざるを得ない
状況となってしまったのだろうか)

2月8日

小説「キぐるみ」(D)

話が飛んでる。
書き始めてからラスト考えたんじゃないかって感じ。
話の内容は袴田吉彦主演の映画「二十才の微熱」と
途中から少し雰囲気が少し近くなる。
冒険小説的雰囲気をもっと減らせば、
若者が持つ心の不安みたいなのが
わかりやすくあると思った。
この作品でよく描かれてるのは、
若者が挫折から立ち直るとき、
心を落ち着かせてくれるものが必要だということ。
でもそれは、自分の中に平安を受け入れる余地が必要。
「自分のことは自分がいちばんよくわかってる」
と言えるだけの客観性とか。
物事を客観視できれば周りの中での
自分の立ち位置もわかるし。
あと、個人的に興味深かったのは、
小説がコマ割りされていること。
「小説とマンガの融合」という触れ込みも、
これがなかったら、
ただの挿し絵付き小説になっていたと思う。
小説の通常の段落より、一コマは
文字数が少なく、テンポよくなってる。
私が知らないだけで、これって既に
他の作家がやっていたりするのだろうか。
これを見たとき、「コロンブスの卵」だなぁと
実際にやってのけた著者に感心したのだが。
これでさらに、コマごとに視点が変わったりすると、
(江國香織の小説みたく)
もっとおもしろいかもって思った。
「キ-01」から「キ-12」までチャプターが別れてて、
一部、その分れ目が機能してないようにも思えたし。

2月2日

小説「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(江國香織)

全10話収録の短編集。
江國ワールドについていけず
読んでてつらい作品もあったけど、
6話目の「ジェーン」は気に入った。
アメリカが舞台になってて、初期の作品っぽい。
江國香織の小説を読む楽しさは
本筋と関係ない細かい描写だったりする。
主人公の趣味と自分の趣味を重ねてみたり。
これは「村上レシピ」なんて本が出ちゃう
村上春樹にも言えることだけど。
この話のジェーンの描写を読んでいると、
日本人とアメリカ人の違いも伝わってきて
アメリカでの日本人の生活が目に浮かんでくる。
あと気に入ったのは7話目の「動物園」。
江國香織が描く子供はかわいくて魅力的。
ここで出てくる樹もかわいい。
特に動物園をちゃんと順路通りに回ろうとするところ。
1話目の表題作の主人公、葉月や
3話目の「サマーブランケット」に出てくる道子は
彼女の代表作「きらきらひかる」の笑子のような
不思議ちゃんキャラで、
読んでいて惹かれるキャラクター。
こうしたキャラクターや細部に目が行くのは
どの話も大仰でないから。
何か出来事が起こっても
生活はいつしか日常へと戻っていく。
短編集全体がそんな雰囲気。
江國香織が描く日常に興味を持てないと
(そこに自分と同じリアリティは感じられないとしても)
読んでいてつらい気がする。



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